絵巻物と将門

1.「相馬之馬追祭図

(5月中の申の日 -坂下より新田川原 渡橋の景-)

作品名:『相馬之馬追祭図』 
絵 師:多田満寿(経歴不詳)

 絵巻物という形式は,わが国に仏教が渡来し,大陸文化が流入した時代に他の文化と一緒に入ってきたと考えられている。わが国で作られた絵巻物の最古という『絵因果経(えいんがきょう)』は,釈迦の伝記を記した経典に絵を加えたもので,天平年間(729~765)に制作された。
 その後,10世紀から11世紀の藤原氏全盛時代,日本文化・文芸の興隆の思潮に育まれて発達した。平安後期から鎌倉時代に入ると,内容・様式の上に多様性を加えて物語文学,和歌文学,伝奇説話,戦記,記録類など多くの作品が作られた。しかし,中世末期から江戸期には,絵巻物に代わって掛け軸形式の鑑賞絵画が主流を占めたが,近世から現代に入っても絶えることはなく,わずかながら制作されている。
 掲画は,江戸中期から後期にかけて制作された絵巻物のひとつである。内題に「野馬追之記・相馬より書上(かきあげ)」とあり,巻末には,東奥中村藩,只野頼氏男(ただのよりうじのなん)多田満寿(ただのみつずみ)と誌している。多田満寿については不詳だが,狩野派の画法を心得た絵師である。
 詞書に「鎮守妙見祭礼野馬追の事,先祖,下総国居住の節,小金原に於て野馬追仕り候。其の後,当地中村里に移り候以来,野馬追場所は行方郡原ノ町と申す所に-」と記している。
 これによると,相馬氏の始祖,平将門が下総にて始めたと伝え,鎌倉時代の千葉常胤(つねたね)の二男師常(もろつね)が将門の正統を継いで相馬地方を支配するようになると,将門の先例にならって小金原で野馬追を行うようになった。さらに元亨3年(1323)下総から奥州太田(原町市)に移った相馬氏は,小金原での騎馬の調練を模して野馬追を行った。これが野馬追いの原形である。
 将門の頃,官牧はともかく私牧では,多くの野馬を放牧し,演習の際はこの馬群を敵と見立て,将兵が騎馬で追うことによって馬術の稽古をしたと思われ,将門が騎馬による先制攻撃を得意としたのは調練に意を注いだからであろう。この調練と相馬家の鎮守であった妙見社に,神にかなう馬をとらえて奉納するという行事が「妙見野馬追」として伝承された。
 掲画は,その祭礼の絵巻物である。中村藩(相馬市)から出発した隊列が新田川原渡橋の図である。

2.「相馬之馬追祭図」(2)~原の町より早朝出陣~

(~原の町より早朝出陣~)

作品名:『相馬之馬追祭図』(2) ~原の町より早朝出陣~
絵 師:多田満寿(経歴不詳)

 当絵巻物の全体構成をみると,内題に誌された『野馬追之記』の叙述に準じて構図したものと思われ,徒歩と乗馬の一隊が相馬中村城を発って新田川原を渡橋するまでを前段とし,第二景が,原の町宿での宿営の様子と出陣の光景,隊列を整えて宿から野馬追原までの行列,つづいて野馬を追い下げる場面を躍動感あふれる構図に描いたもので,四部構成による作画である。
 上段の掲画は,原の町宿内の出陣光景である。街道の両側には,指旗(さしはた)が立ち並び,宿泊の商家や民家の軒には,家紋付きの陣幕が張られている。出陣を控えた武士と供人(ともびと)たちが準備に追われ,あるいは,隊列に加わるべく急ぐ姿を浪人の武士,俳諧師風の男たちが眺めている。商家の下男たちが朝荷を受け渡す姿,往来を肥桶をかつぐ姿などを描いているのが面白い。
 野馬追は,相馬家の鎮守である妙見祭礼で,神の意志に叶う馬を捉えて奉納する神事を行うために武装して野馬を追い下げるものである。そういう意味から藩と領民すべてが力を結集して行う祭礼であり,街道に連立する旗は,その象徴であった。別称に旗祭りといわれるほど,さまざまな模様と色彩の旗がたてられ,その数は数千本に達したという。武士たちの家紋旗はその象徴的な存在であった。
 下段の掲画の左側からみると,まず五色の小旗が先導し,続いて,八幡大菩薩と勝軍地蔵と大書きした旗,その後に黒地に日の丸が描かれているのは,藩主の旗である。
 この旗は,相馬家の始祖平将門が世にさきがけて作って用いた幟旗(のぼりばた)といい,大龍(おおたき)と称した。別称に龍旗とも呼んで君主を意味し,行列には必ず用いて本陣着後は本陣に掲げ,常に藩主の傍らにあった。
 つぎに熊手棒を持った武士組が行進し,後方に,同じ黒地に日の丸の小旗が見えるが,その間に黒駒に乗っているのが藩主であろう。藩主の姿をみると,卯花縅(うのはなおどし)の鎧に五枚甲の緒をしめて,獅子の牡丹の佩立(はいりつ=飾り)し,黄金作りの太刀を差し,猩々錦(しょうじょうにしき=赤色)の陣羽織,背に赤布衣(あかほろ=保呂ともいう)を負い,金覆輪(きんぷくりん=金銀をあしらった)の鞍に乗った勇姿として描いている。
 上段掲画に,本陣から街道に向かう行列の後方に紫地に白丸の旗がみえるのは,藩主の奥方旗で,相家第一の旗である。

3.「相馬之馬追祭図」(3)~野馬追原と休息所~

作品名:『相馬之馬追祭図』(3) ~野馬追原と休息所~
絵 師:多田満寿(経歴不詳)

 野馬追の祭礼に参加する相馬藩主と騎馬の士を含めた総勢は,約600人を数えるといい,掲図は原町宿から野馬追原に到着するまでの行列と沿道光景を描いたものである。
 まず上段の図をみると,本陣を先導する五色旗の前方に,野馬追に欠かせない陣貝(=法螺貝:ほらがい)役2人の騎上姿があり,その後方に徒歩に陣太鼓を負わせた鼓役が貝吹の調べに合わせて打鼓しつつ進行する姿を描いている。
 陣貝といえば,戦国時代の天下分目の戦いであった関ヶ原合戦の時,池田輝政が貝役をつとめ,貝吹の弥左衛門が巧みに吹いて勝利に導いたという話は有名である。古来,戦場における隊の進展を知らせる重要な役目を負うことから,野馬追の場合も大将に準じた位置づけがなされている。陣貝役は,藩士代々が継承し,貝の吹き方も決められていた。この陣貝と同じく陣太鼓の打ち方も決められていて,ともにその流儀は,武田流という。
 騎上にある陣貝役を細見すると,貝を平に右手に持って,吹口を唇にあて吹いている。顔は,前方に向け,乗馬の進む方向を見るので,貝はやや右前に掌を広げて持ち,唇の右の方で吹くことになる。左手は馬の手綱を離さず握り,馬を巧みに乗りこなす姿は,衆目の的であろう。
 陣貝役の前方に,蜈蚣(まむし)旗が2旗見えるが,野馬追では行列用に用いられている。この旗の傍には軍者を配するのが常であるから,旗を指す騎馬の前にいる騎上武将が軍師であろう。組子12人の者が鳥毛の槍を持ち,小旗をさして隊列を作り,その先頭に長柄組の足軽大将が馬に乗って行進。同じく弓組の12人,つづいて鉄砲組の順で行列は進み,先頭隊は野馬原に到着し,陣ヶ崎での陣立て(じんだて)を待つことになる。
 野馬原は四周を土堤で囲むが,土堤内には見物客を見込んだ出店が並び,客のための休息所が設けられている。所内には,さまざまな服装の人々が休息しながら談笑,あるいは,飲食の宴を張り,なかには花札に興じる庶民の姿も描かれている。年1回の際礼を享楽しようと余念のない活力がみなぎっている。
 野馬追行事資料の『見物衆中昼食の事』には,出店の売り物として数多くの品目があげられている。「諸人の珍食美食を尽くし財布の銭もあわなかれ,ただ盗(ぬすみ)とるるが如し」と結んでいる。祭礼に浮かれた庶民の心躍りは,神田祭りに象徴される心意気に通じるようである。

4.「相馬之馬追祭図」(4)~原の野馬追の景~

作品名:『相馬之馬追祭図』④ ~原の野馬追の景~
絵 師:多田満寿(経歴不詳)

 当絵巻物の巻首に記してある「野馬追之記」によると,相馬野馬追祭は,前日のお行列と宵乗(よいのり),当日の野馬追,翌日の野馬掛からなる行事である。
掲画は,野馬追原で繰り展げられた野馬追のようすを,巧みな遠近法を駆使して描いた場面である。
 上段の画をみると,野馬追原をゆく鉄砲組の隊列とその向側の「夜の森丘」での見物人衆の姿を描き,その先方に野馬追の情景を描いている。
『野馬追之記』によると,行列が到着すると,備(そなえ=部隊)を組み,駆引を行い,鉄砲組が空砲を打つのを合図に野馬追が開始されたとあるが,掲画では,この陣立の部分を省筆している。
 野馬追の景をみると,野原に放した野馬を追う騎馬武者の疾走する勇姿,落馬した武者のユーモラスな表情,追い詰められる馬たちの多彩な姿態の描写は躍動感に溢れていて見事である。
 掲画は,この光景までで終わっているが,当日の野馬追はまだ続く。馬たちを原の東に位置する巣掛場(すかけば)木戸の前に追い込むと木戸を開き,原の外に追い出して小高に向けて馬を南下させるのである。途中,馬たちは海岸に出て海に入り,身を清めると小高の妙見社まで走る。妙見社の前庭の矢来(やらい)で囲んだ柵の中に馬を追い込むと,当日の行事は終了する。
 翌日の野馬掛とは,潔斎(けっさい)したお小人たちが矢来の中の馬で,神の意志に叶う馬を捉えて奉納する神事のことである。
 最初に,その年生まれの馬を捕まえて別にし,つづいて若馬を1頭捕まえて首先に幣(へい)をつけて庭に放す。そのつぎに3頭捕まえて繋(つな)ぎ留めおき,つぎに2歳頃の馬7頭を捕まえて焼印を押してから放す。最後の3頭のうち1頭にだけ鞍(くら)を置き,他の2頭はそのまま「馬取」が庭なかを乗りまわして行事は終わる。
 矢来の木戸を開けると,馬たちは,小高の妙見社から野馬追原まで帰ってゆくという。
 坂東市所蔵の『相馬之馬追祭図』の全容を紹介した。当絵巻物は『野馬追之記』を参照しながらも,「行列」と「野馬追」の部分を中心に描いたことがわかる。18世紀中頃の作として貴重な史料である。