将門公と史跡

将門公

 平将門伝説は、北は北海道から西は広島県まで分布し、中でも将門の支配下にあった関東地方に多く残っています。
 他にも伝承などを加えると、その多彩さに圧倒されます。
 今から1100年前の東国は、坂東と呼ばれる未開拓の地でした。その荒地の開拓に農民たちと取り組んだのが将門であったと伝えられています。将門は新しい時代を予期した馬牧の経営と製鉄による農具の開発などに取り組み、荒地の開拓を容易にしました。そうした進歩性が一族との争いを生み、その争いが国家権力との争いに発展し、豊かな郷土の実現を間近かにして敗れてしまいました。
 将門伝説には、その夢の実現を見ずに散った悲劇性と庶民の願望が、今日まで語り継がれています。

深井地蔵尊と将門妻子受難

 結城・坂東線と猿島・常総線が交差する沓掛信号を左折して猿島庁舎方面に向かい、沓掛台地から西仁連川沿いに出るところに大きなカーブがあります。そのカーブの途中の市道を右に入り西仁連川に架かる地蔵橋を渡った左側に深井地蔵尊が祀られています。
 この堂は、外見だけを見るとありふれた堂に見えますが、平将門の妻子が惨殺された悲劇の場所でもあると考えられます。
 良兼軍との小飼の渡の合戦に敗れた将門は、十日ほど後、堀越の渡に布陣しますが、急に脚気を患い、軍の意気が上がらず退却します。妻子を船に乗せて広河江(飯沼)の芦の間に隠し、自分は山を背にした入り江に隠れて見守ることになります。  良兼軍は、将門と妻子たちの所在を追い求めるが見つけられず、戦勝した良兼は、帰還の途につきました。妻子がその様子を見て船を岸に寄せようとした時、良兼軍の残り兵に発見され、承平7年8月19日、芦津江のほとりで殺されました。
 妻子受難の場所には、諸説があります。しかし「将門記」には、『幸島郡芦津ノ江ノ辺』とあります。芦津は「和名類聚抄」にも石井と共に記された郷名であるので、現在の坂東市逆井・山、沓掛に至る一帯を指すものと思われ、この間の大きな入谷津を総称したと考えられます。
 深井の地蔵尊の創建は古く、将門の子どもの最後を哀れんだ土地の人々が祀ったのが、この地蔵尊ではないだろうかといわれています。
 
深井地蔵尊(沓掛2205)

将門と山崎

 県道高崎・坂東線と猿島・常総線が交差する内野山小学校前を沓掛小学校に向かうと、山崎地区があります。同地区には、京都の小路を偲ばせる地名が小字となっています。
 旧猿島町史資料の『事績簿』によると、『平将門、当地の天然の風致に富めるを愛し、時々駿馬を馳せ来たり。沓を樹に懸けて憩いたるの故を以て沓懸の地名が起こり、沓懸と書きしが、更に沓掛と改書せりと。また将門、都に擬して喜野小路・平形小路・柏畑小路の名称を付けたるなり。現時小字として存す。』とあります。  将門の生涯を叙述した『将門記』によると、坂東8カ国を支配下に治めた将門は、新たに諸国の国司を任命して東国独立国家を開府しました。その上で王城(皇居)を下総国の亭南に定め、さらに文武百官を任命しました。
 ここに記された王城の立地は諸説ありますが、石井営所の付近と考えられます。京都を見本に「うき橋をもって京の山崎になぞらえ、相馬郡大井の津をもって京の大津とする。」と協議され、山崎地区が比定されていたことを『事績簿』は物語っています。この地が将門と深い関係にあったことは確かなようです。
 また、内野山には古代の製鉄遺跡があり、将門と鉄との相関性が指摘されています。

沓掛山崎行政区内

内野山の松崎天神社

 内野山の舌状台地が根元から開削されて、西仁連川が貫流したのは昭和初期のことです。この開削工事によって、西仁連川の東側に取り残された台地上に鎮座するのが松崎天神社です。
土手道から坂を登ると、境内入り口に木造両部鳥居があり、参道を進むと社殿の前に出ます。境内の木間越しに飯沼耕地を眺めると、三千町歩の美田が一望できる景勝地に驚かされます。
 境内にある「村社天満神社碑」によると、平将門没後の天慶8年(945)9月、菅原道真公の子息、景行・兼茂・茂景がこの地に立ち寄り、三方を水に囲まれた舌状台地が湖上の島を思わせ、老松と月影を映すという風光明媚な景色を賞しました。  この台地に、菅原氏の遠祖にあたる「天穂日命」を祀り、併せて道真公を祀って天神社としたことが誌されています。
 飯沼耕地は、「将門記」に広河の江という名で記され、大蛇が棲む秘境とあり、また周辺には7天神社が鎮座していたとされています。
 その天神社由来については、『神社縁起書』に詳しく記述され、菅原景行の治績に関係あるとされました。当社を腰掛け天神と称し、景行が将門の開拓思想を受け継ぎ、飯沼の開発構想を練ったことによるといわれています。
 常陸国の介であっ景行は、介の任期が終えた後、この地にとどまり、対岸の大生郷に学問所を開きました。将門の弟将平も通って修学したとも伝えられています。

松崎天神社(内野山919)

弓田の不動尊

 主要地方道結城・坂東線を沓掛方面に向かうと、県道高崎・坂東線との交差信号があり、その信号を越して約50mほど進み、小道を左折して道なりに歩くと、右側に「弓田のポックリ不動」で知られた明王山慈光寺が現われます。
 昔は、弓田を湯田と称しました。湯田とは、「火急のときに用立てる資金を得る田」という意味で、豊穣な土地を指した地名であることからも、早い時期に集落が拓けていたと思われます。
 寺伝によると、奈良時代の天平18年(746)に、僧行基の高弟がすべての悪魔を退散させ、世の中を平和にする衆摩降伏・真理円融の道場として創建され、不動明王が祀られました。
 平安中期、平将門が政治、経済、軍事の拠点を岩井営所に移すと、当寺を鬼門除けの本尊として仰ぎ、また守り本尊として深く信仰したと伝えられています。
 門前から約200mほど西方に、弓田香取神社の杜があり、この杜は律令時代に兵営の守護神として創祀されたと伝えられ、承平3年(939)2月に将門が参拝したといわれています。
 さらに、この弓田香取神社と慈光寺との間を兵庫屋敷(兵器の倉庫跡)と称し、道路を隔てて談議所(軍談所)と呼び、奈良時代からの軍事基地であったようです。その後を引き継ぎ活用した将門は、軍事拠点と位置づけ、神仏の加護を祈っていたことを物語っています。

弓田の不動尊(388-2)

国王神社と将門座像

 岩井市街から結城街道を沓掛に向かう左側に、杉木立におおわれて国王神社があります。古風な木造両部鳥居をくぐり、参道を進むとその奥まったところに茅葺き屋根の社殿が現われます。
 常緑樹に囲まれた入母屋造りの拝殿、幣殿、本殿からなる社殿は、質朴な中に神さびた雰囲気が感じられます。
 祭神は平将門命です。
 「国王神社縁起」及び「元享釈書」によると、将門最後の合戦の時、三女は奥州恵日寺に逃れ、出家して如蔵尼と称しました。将門の死後33年目に郷里に戻り、この地に庵を結び、森の中から霊木を見つけ、一刀三拝して父将門の像を刻み、小祠を建てて安置し、将門大明神と号して祀られました。
 御神体の像は、寄木造座像で高さ2尺8寸の衣冠束帯姿で、右手に笏を持っています。像の表情を見ると、目は吊り上り、口は八の字に結び、怒りの形相を表わし、武人の気迫が全身にみなぎっている印象を受けます。
 彫刻で注目されるのは、本殿向拝に用いる蟇股のつなぎ馬です。江戸期の将門芝居につなぎ馬の紋所が描かれるのは、この彫刻に由来するようです。将門軍の最大の武器は馬と鉄といわれ、騎馬合戦を最も得意としていました。しかし、乱は終わり、平和な時世には騎馬は不用と馬をつなぎ置き、再び合戦に用いない証明として彫られたものと伝えています。
 なお、社殿と将門座像は、県の重要文化財に指定されています。

国王神社(岩井948)

延命寺の薬師如来

 国王神社の交差点を渡り、島広山台地を東に向かうと、四周を田んぼに囲まれた森が現われます。ここが将門ゆかりの寺として知られた延命寺です。
 延命寺は医王山金剛院と称し、真言宗豊山派に属している古刹で、別称として「島の薬師」と呼び親しまれてきました。
 赤松宗旦の『下総旧事考』によると、「相馬氏の創建、文安2年(1445)僧安成の開く所なり。京都の東寺に属す。寺領20石」とあり、もとは国王神社の隣に寺域を構えていましたが、享保年間(1716~36)に飯塚氏に神職を譲って、住職は自ら寺域を現在地に移しました。
 山門は四脚門の形式で、室町時代の建築様式を遺した茅葺切妻造り、近郊に比類のない造形美を示し、大旦那であった相馬氏の将門に寄せる思いに誇りが感じられます。
 山門を抜けて石造太鼓橋を渡ると、その先に寝殿造りを模した朱塗りの薬師堂があります。この堂内の厨子殿に奉安する薬師如来像は、将門の守り本尊と称する持護仏で、将門の死後に祀られたものと伝えられています。また、縁起書によると行基の作とあり、高野山の霊木で刻まれた尊像と記され、4月8日の縁日には、広大な境内が参詣人で身動きできないほどの賑わいであったようです。
 将門の子孫であった相馬氏が、将門ゆかりの寺院や神社の大旦那として尽力したことは、火災を免れた山門の威容、水車の軒丸瓦に九曜紋が用いられていることからもうかがえます。

延命寺(岩井1111)

九重の桜

 石井の井戸跡から南へ向かって進むと、台地が東に突き出した田んぼに面して小さな森が見えます。この森が九重の桜史跡です。
 史跡には、碑とその伝承由来を誌した副碑が建っています。碑文によると、九重の桜は、京都御所の紫宸殿前にある桜を根分けして移植したものと伝えられています。九重というのは皇居、または王宮を表す言葉といい、中国の王城の門を幾重にも造ったことから生まれたと記されています。
 紫宸殿とは、内裏の正殿にあたり「南殿」または「前殿」とも称しました。もとは日常の政務を行うところであったが、後に正殿をめぐる華やかな儀式や行事の中心的な場となります。
 東宮(朱雀天皇)の元服の儀が紫宸殿で執り行われ、その恩赦によって将門の帰国が許されました。南庭の左近の桜を株分けして、将門ゆかりの地に移植されたという伝承には、恩赦への感謝の情がくみとれます。
    いにしへの奈良の都の八重桜
    けふ九重に匂ひぬるかな
 歌人伊勢大輔の歌は、源氏物語の「花宴」を連想させます。八重桜とは八重咲きの里桜のことで、別名は牡丹桜といいます。桜の中では開花が最も遅く、それゆえに愛惜の心が揺らぐことから、願いを託した桜として<九重>の造語が生まれたものと考えられます。

九重の桜(岩井2454-2)

石井の井戸

 石井営所跡を離れて延命寺に向かう途中、右手の田んぼの中に突き出た緑園が<石井の井戸>跡です。
 この井戸は、中根台地の裾辺にある地下水の湧き出し口で、古代人がこの地に来て、湧水近くに居を構えて以来、人々が移り住んだと思われます。奈良時代には、石井郷という行政区域になっていました。
 平安時代に書かれた『将門記』には、将門の本拠となる石井営所として記述されています。その主人公の将門と石井の井戸との関わりについては、「国王神社縁起演書」に詳しく記されています。
 『将門が王城地を求めてこの地を見回っているうちに喉が渇いて水が欲しくなった。その時、どこからか老翁が現われ、大きな石の傍らに立っていた。翁はその大石を軽々と持ち上げて大地に投げつけると、そこから清らかな水が湧き出し、将門と従兵たちは喉を潤すことができた。
 将門は不思議に思い、翁を召して「あなたはどのようなおかたなのでしょうか」と尋ねると、翁はかしこまって一首の歌を詠んだ。
    久方の光の末の景うつる
    岩井を守る翁なりけり
と唱じると姿を消してしまった。
 将門はこの翁を祀るとともに、この大地に城郭を造ることに決めたのである。』とあります。
 また別説としては、<星見の井>や<将門産湯の井>などの諸説があります。いつの世も、人々の定住に欠かせない水の大切さを物語っているといえます。

石井の井戸(岩井1627)

島広山・石井営所跡

 岩井市街地から結城街道を沓掛方面へ向かうと、国王神社手前に信号があります。その交差点を右折し、延命寺に向かう途中の台地を島広山と称します。ここに将門が関東一円を制覇するときに拠点とした石井営所跡があります。
 明治期に建てられた石碑の周辺を整備し、重さ20トンの筑波石を自然のままに置き、石の表面には「島広山・石井営所跡」と刻まれており、右側の副碑には、将門の事績と営所についての説明文が添えられています。
 石井営所が『将門記』に現れるのは承平7年(937)のことです。将門の雑役夫を務めていた丈部小春丸が平良兼の甘言につられてスパイとなり、すぐに営所内を調べあげて良兼に知らせます。良兼は好機到来とばかり精兵八十余騎で石井営所に夜襲をかけますが、将門方の郎党の急信により大敗します。
 石井営所の周辺には、重臣たちの居館、郎党などの住居などが並び、そのうえ、将門が関八州を攻めたときには2千騎、3千騎が終結しているので、軍勢が集まった時の宿舎や食糧庫並びに馬繋ぎ場などが必要でした。今の上岩井から中根一帯に、これらの施設が設けられていたと考えられています。
 石井営所は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わいましたが、天慶3年(940)、将門は藤原秀郷と平貞盛の連合軍と合戦して破れ、営所の建造物が焼き払われてしまいました。

島広山石井営所跡(岩井1603)

高声寺

 浄土宗の藤田山道場院高声寺は、中心市街地から常総市三妻に向かい、バイパス交差点を越えた左側にあります。
 この寺の開山は、唱阿性真です。性真は武蔵野国藤田郷の藤田(花園)城主民部少輔利貞の子息で、始め天台宗を学び、後に浄土宗を学び、浄土宗第3祖鎌倉光明寺の良忠上人の弟子となります。
 高声寺の伝説として、開山がたまたまこの地を通ったとき、しきりに眠気を催して、仕方なくうとうととうたた寝をしていたところ、将門が夢に出てきて「自分に罪はないのだ。」と訴え、将門をざん訴するものがあったから、ついに京都から謀反人扱いにされて残念でならない、と嘆くのを夢見て、性真は哀れに思い、その霊を慰めようと寺を建てました。すると夜毎「ええ、おお」と気合をかける高い声が聞こえたので、寺名を「高声寺」と名付けたと伝えられています。
 正応元年(1288)8月に藤田山高声寺は、中根の地に開山され、20世貞誉上人が貞享元年(1684)に現在の地に移したものです。その後、浄土宗藤田派の本山となり、将軍家智華寺として歴代将軍葬儀に参列し、徳川時代には270余寺を末寺としていました。
 境内には、鐘楼、山門、開山堂、地蔵堂などがあり、ともに江戸中期の建造です。なかでも四脚門は、正徳5年(1715)の建立で、南禅様式の貴重なものとして、常総市の弘経寺の山門とともに注目されています。

高声寺(岩井3478)

富士見の馬場

 市街の四ツ家から岩井第一小学校に向かって進むと、右側に小さな緑地があり、ここを「富士見の馬場跡」と称しています。
 この地を基点に北へ700m、幅22mの直線路があり、道の両側に松並木が続いていたと語り継がれています。
 今から1100年前の書物『延喜式』によると、諸国の牛馬牧として39牧の名称が記録され、そのうちの18牧が兵部省管轄の官牧でした。下総国には馬牧4、牛牧1が数えられました。
 平将門の領内には大結牧と長洲牧があったことから、将門は官牧の牧司を兼ねていたのではないかといわれています。
 『将門記』には、百騎を超える騎馬隊を組織し、合戦の場で効果的に用いている場面が描かれています。
 当時は、ほとんどが自然の状態で飼育された野馬でしたので、人が乗り、使役のためには調教する馬場と厩が必要でした。
 富士見の馬場は、調教を目的に開設され、やがて将門によって軍馬の調練の場として活用されたことは<野馬追い>行事の継承を通して想像することができます。
 鎌倉時代は、猿島地方も戦乱の中に組み込まれました。豪族たちはもちろんのこと、その旗下にあった農民たちも、戦場に出陣するために馬を飼い、そして馬を求める馬市が立ち、その取引の場所となったのが、富士見の馬場であったことも伝えられています。

富士見の馬場(岩井2245-5)

平将門文学碑

 八坂神社前の長谷八幡線を北へ向かうと、左側に岩井公民館があり、その前庭駐車場の東端に平将門文学碑があります。
 この碑は、平将門生誕1100年を記念して、平成14年11月、市民の総意が実って建立されました。碑文の文字は、書家・平勢雨邨氏の揮毫です。
 『将門記』によると、将門軍の兵たちが敵将の平貞盛の妻と源扶の妻たちを捕らえたという報告を受けた将門は、先の合戦で自分の妻子が捕らえられ殺されているにもかかわらず、「女性の流浪者は、その本籍地に身柄を帰すのが法令の慣例である。また、身寄りのない老人や子どもに恵みを与えるのは、昔の帝王たちがつねに行ってきたよい手本なのだ。」といい、将門は衣服を与え、和歌を詠んで添える場面が描かれています。
 碑文には、この時の和歌が二行に分けて彫られました。
    よそにても風の便りに吾そ
    問ふ枝離れたる花の宿りを
(遠く離れていても香を運ぶ風の便りによって、枝を離れて散った花のあかりを尋ね求めることができます。同じように人々のうわさによって、散る花のように夫のものを離れて寄る辺ないあなたを案じています。)
 天慶2年から3年にかけて関東地方一帯で活躍した平将門は、歴史上に名高く残っています。将門といえば、荒武者のように世間では考えられがちですが、自筆による伊勢神宮の奉納文を読むと、その達筆さとともに、すぐれた教養人であったことが察せられます。
 文学碑は、戦乱の中にあって権力と勇猛さだけでない、将門の心の優しさ、人間性を如実に物語っています。

岩井公民館(岩井3108/0297-35-8800)

平将門公之像

 市道長谷八幡線に面した雑木林の中に、総合文化ホール「ベルフォーレ」があります。この施設は、音楽ホール・アトリウム・図書館からなる複合文化施設で、平成6年3月に完成しました。その完成記念事業の一つとして、前庭広場に平将門公の騎馬像が建立され、将門の里の象徴的なブロンズ像として親しまれています。
 この像は、彫刻家一色邦彦氏の作です。一色氏は土浦市に生まれ、東京藝術大学を卒業すると、新制作協会に所属し、1966年には高村光太郎賞を受賞しました。以来、著名な彫刻家として活躍されています。
 平将門は、石井営所を本拠として、古代社会から中世社会への扉を開く役割を担った武将として知られています。青年の時に京都に上り、朝廷の官人として勤めました。関東に帰ると、叔父たちとの間に所有地などが原因で争いが起こりました。やがて一族間の争いは、各地の国庁との戦いに発展し、将門は関東8カ国を支配下におさめ、関東独立国家建設の夢を目指しました。その夢を求める将門を表現し、完成されたのが「平将門公之像」です。
 このブロンズ像を見ると、将門は折立烏帽子を被り、狩衣姿に太刀を差し、黒鹿毛の駒に乗った勇姿という印象を受けます。駒の背に粛然と身を任せ、北に向かって駒を進める姿には、自分の支配地に辿り着いたという安堵な雰囲気と、その躍動的な駒の姿態、遠く筑波の双峰を追う将門の敏捷な眸の中に、強い意志が感じ取られます。

ベルフォーレ

西念寺

 辺田三叉路を野田方面に100mほど行くと、左側の森の中に西念寺が見えます。
 西念寺は、もと天台宗の聖徳寺といわれていました。 親鸞の弟子、関東24輩の第7番西念は、武蔵野国野田村(現在のさいたま市)に道場を建て、生涯を布教につとめ、108歳で往生したと伝えられています。野田の道場は、長命寺と名付けられました。その長命寺は、建武の兵乱で焼けてしまい、当時の住職は西念の出身地である信州に移ったので、寺の宝物は、血縁のあった辺田の聖徳寺に納められ、江戸時代初期に開基を西念とし、寺号も西念寺と改められました。
 西念寺には、県指定文化財の木造阿弥陀如来座像、市指定文化財の来迎図板碑などがあります。また、境内には、親鸞が猿島地方の教化の折に植えられた「親鸞お手植えの松」がありましたが、現在の松はその二世となります。
 その松の近くに鐘楼があり、ここに釣られていた鐘には「泣き鐘」伝説があります。『その昔、平将門の率いる兵卒集団が、この寺の境内にあった釣鐘を持ち出して陣鐘にしました。ある日、兵卒のひとりが、この鐘をつき鳴らすと、不思議なことにその鐘が、「辺田村恋し、辺田村恋し」と泣くように響きわたり、兵卒たちは、気味悪がって士気が上がらない。将門は腹を立てて、寺へ返した。』と伝えられています。

西念寺(辺田355-1)

延命院と胴塚

 延命院は菅生沼を臨む東側台地にあります。広い境内を多くの桜の木が占めていて、春には見事な彩りを添えます。
 将門の胴塚で知られる延命院は、新義真言宗に属し、神田山如意輪寺延命院といい、また篠越山延命院観音寺ともいいます。本尊は延命地蔵菩薩です。
 天保6年(1835)に建てられた「延命院復興記」碑によると、開基は京都東寺の僧宗助で、中興の祖は来世法師とあります。
 現存する観音堂は、関宿城主牧野成春公の助力で宝永7年(1710)に建立され、堂内の聖観音立像は伝教大師の作と伝えられています。境内にある不動堂の裏に円墳があり、この塚を将門山、または神田山と称しています。
 将門は、天慶3年(940)2月14日の合戦を迎えて、石井の北山に最後の布陣をします。最初は風上に立って優位な戦いでしたが、急に風向きが変わり、正面から突風を受ける立場になったとき、敵の矢を受けて倒れました。その首は藤原秀郷によって京都に送られ、東市にさらされたといわれています。残された将門の遺体をひそかに神田山の延命院境内に葬ったのが、この胴塚と伝えられています。この地は、相馬御厨の神領だったことからあばかれることなく、今におよんでいるといわれています。
 その胴塚を抱くように大きなかやの木が立っています。また、胴塚の西側には、昭和50年に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられています。

延命院(神田山715)