伝記物語と将門

1.「将門軍記」 竹内栄久(編)

上巻:「将門と桔梗」/下巻:「将門と貞世」

 『将門軍記』は、上下二巻から成る和本で、上巻の一丁が欠けていて冒頭文が不明となっている。
 「-帝都に攻めのぼらんとて諸軍勢に知らせてその用意をなしけるに、力を憑(しの)きしつる藤原秀郷となりければ驚くを大方ならず。先貞盛、秀郷を退治せんと下野(しもつけ)を発向なさるに -」とあるので『将門記』の下野合戦(現在の栃木県)から始まり、川口村の戦い(茨城県結城郡八千代町水口付近といわれる)、島広山の決戦(岩井市中根付近に残り、将門の政治、経済、軍事の本拠地だった石井の営所があった場所といわれる。)を中心に構成した作品であり、『将門一代記』とは異なり、合戦に参加した武人たちの活躍とその生死を描いた物語である。
 文明開化の潮流が生じて新しい文学が動き出したこの時期に、このような娯楽読本を彫版本として出版する背景には、時代に遅れた戯作者たちの文明開化への抗いが感じられる。
 奥付には明治13年とあり、この時期以降は活字印刷に移行しているので、この種の和本の下限を示すものであると思われる。

2.「田村将軍鬼人退治・将門軍記」

将門と武将たちによる合戦評議の段

<作者不明  江戸後期>

 「将門軍記」は、昔語りの形式で、将門が平親王と称して東国に内裏を備えて権勢を誇るに至った最初の戦い、将門と国香との合戦から始まっている。父の戦死を知った貞盛は、朝廷に将門討滅を願い出て許されると帰国し、秀郷に協力を求めた。貞盛・秀郷軍が将門軍と幾度かの合戦を重ねて、ついに将門を滅ぼすまでを描いた作品。
 序文に「-千代歓楽(ちよかんらく)を究めし逆党も終は天譴(てんのせめ)縛せられ、名を残したる将門が謀悪の、其昔の軍の形勢(ありさま)を幼児の双子(そうし)開かしめ侍るのみ-」とある。太平の世にあって逆悪の名がいまに残る将門軍と追討軍の合戦の状況を中心に描いた物語である。

3.「武勇魁殿図会」

作品名:「武勇魁殿図会」 寛政6年(1794年刊) 
<著者 書画:下河辺拾水子 彫工:石原半兵衛>

 江戸期は、普通考えられているより伝記文学が大いに栄えた時代であった。
例えば『信長記』『太閤記』をはじめとして秀れた武士の経歴や逸話などが広く蒐集されたが、なかでも『常山記談』(じょうざんきだん)や『近世畸人伝』(きんせいきじんでん)など多様な伝記物語が庶民に愛読されていたこと。江戸中期から後期にかけては儒教的な道徳、教訓性が強かったことも考えられるが、最も大きな要因は、木版刊本の普及による文化・文芸の大衆化である。
 『武勇魁殿図会』(ぶゆうかいでんずえ)は、伝記物の範囲に準ずる作品で、神代の素戔鳴尊(すさのおのみこと)から平清盛までの24名を扱っている。それぞれの時代と役割を果たした人物を取り上げて、簡略な叙文と勇姿を描いて紹介した図会である。
 平将門については、「相馬小次郎将門」と題名の示すように、必ずしも史実ではなく俗説を用いているものの、日本歴史上の24名の中の一人として扱っていることは、注目される。
 序文によると、「古今の神像、勇士像の画は神社仏閣に掛け納められているが、それを写し集めて寛永年間に上梓したものを手本にして、下河辺拾水子が改めて叙文と姿絵を描いて出版することになった」とある。
 なお、本書が刊行してより4年後に、真福寺本「将門記」が木版刊行されている。

4.「将門一代記」

将門より貞盛の妻へ贈歌の場面

作品名:「将門一代記 」 著者:仮名垣魯文(※1)  画工:一盛斎芳直(※2)

 文明開化期の風俗を描く際物的な滑稽本の代表作家であった魯文(ろぶん)の26歳のときの作品。魯文が本書を執筆するについて参考としたのは、曲亭馬琴(きょくていばきん)の『昔語質屋庫(むかしがたりしちやのくら)』と『将門純友東西軍記』、『前太平記』などと思われる。
 承平・天慶の乱を発端から叛逆へ、貞盛・秀郷軍との合戦と戦死、後日譚までを俗説を踏まえながら西海の純友の動きと連動させた構成によって、将門をより魅力的に描いた伝記物語としている。また、口絵の形で主要な登場人物の姿絵を掲げているが、なかでも趣向を凝らしたと思われる将門と貞盛の妻との贈返歌の趣きには、魯文らしい情念の粧いが感じられる。

※1 本名、野崎文蔵(1829~1894)。別号に鈍亭、野狐庵、猫々道人など。江戸京橋生まれ。代表作に滑稽本『滑稽富士詣』『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋(あぐらなべ)』(明治4~5年刊)
※2 歌川派国芳系の浮世絵師

5.「武勇魁図会」(ぶゆうさきがけずえ)

作品名:「武勇魁図会(ぶゆうさきがけずえ)」 
< 画工:溪齋英泉>

 本書は、寛政6年(1794)に刊行された『武勇魁殿図会(ぶゆうかいでんずえ)』に準した意図による図会である。魁殿図会が青少年向きであるのに対して、「-勇士の誉れを諸書によって捜集し、ありふれた図であるけれども趣きを替え、伝記、俗説とともにその書誌に求め、いまだ視たことのない幼童のために珍しい形を作った。-僅かに古実を知るに足り、傍らに書名を出して軍譚を読む一助となば-」とあるように、本書は児童向き絵本として編まれている。
 初巻は神功皇后から源満仲までの38図。二巻では源頼朝から篠塚伊賀守までの25図。三巻には外国武勇魁を扱うとの予告を見るが未確認である。
 将門については、『前太平記』」より〈平親王将門、貞盛の矢に当て戦死す〉を描いている。俗に騎馬絵とせず、敵兵2名を捕らえようと組み付いたところを額に矢を受けるという斬新な構図には、臨場感がある。また、二巻の中には『太平記』より〈篠塚伊賀守の快力・今張の浦人を驚かす〉と『前太平記』より〈渡辺綱・将軍太郎良門を生捕〉の2図を収めている(良門を将門の嫡男としている)。
 いずれも、菊川派浮世絵師の英泉らしい戦場武者絵である。

6.「絵本将門記」

作品名:「絵本将門記」 寛政5年1月(1793)刊 
<著者:不詳 画工:北尾蕙齋政美 彫工:朝倉権八・岡本松魚>

 将門と純友とが合議のうえ東西呼応して叛乱を起こしたとする『大鏡』の叙述は、それ以後の説話に、異説を生むことになった。『俵藤太物語』や『将門純友東西軍記』など、伝説と創作をもとにした作品世界に発展した。
 序に「それ絵事の妙なる。よく古今の事を写して几上に歴然たらしむ所謂前九年、後三年、保元、平治、源平、南北朝など世々の丹青はあきらかなり。今、天慶の将門、承平の純友の逆乱をまのあたり小冊の画となして、太平の代の玩び(てあそび)とせし」とある。本書の冒頭に六孫王源経基の系譜と武勇を描いていることから、鎮圧者側から見た叛乱として、やや教訓的に描いている。

7.「絵本将門一代記」

(将門追討軍の評議の場面)

作品名:「絵本将門一代記」 寛政5年1月(1793)刊 
<著者:不詳 画工:北尾蕙齋政美 彫工:朝倉権八・岡本松魚>

 木版刷が発達するに従って、黄表紙の作風が大きく変化するのは、寛政の改革が行われて以後のことである。それまでの軽妙と機知とを生命にして、その時事を風刺的に戯画化する傾向から、敵討ちや御家騒動などを中心にした教訓的な作風へと移った。
 作品の内容が変化するに従って長編化し、数巻で完結するようになる。本書も5冊の巻からなっているが、第一巻と第三巻の2冊が欠けているので冒頭部が不明である。表題が示すように、平将門の生涯を史実と伝説をもとに創作し、新しい意匠を粧った物語となっている。
 なお、広告に、『三楠実記』『続三楠実記』、更に『続後三楠実記』『朝鮮征伐記』の刊行を示していることから、歴史上の人物の伝記物を中心に刊行していたことが明らかである。同じ企画の一冊として出版された。
 前掲の作品と同じく、奥付に著作者名を省略しているが、作品の内容と出版時期からみて、山東京伝(1761~1816)の作と推測される。
 寛政の改革で、洒落本3部が発禁、手錠50日の刑を受けて間もない時期の配慮と、絵師の政美とは北尾重政の同門という関係から、作者名を遠慮したものであろう。後に、将門伝説を素材に創作した『善知烏安方忠義伝』(あけがらすやすかたちゅうぎでん)は、京伝の代表作である。

8.「女将門七人化粧」

(多治経明、切腹の場面)

作品名:「女将門七人化粧」 明治19年6月刊
<著者:鹿鹽文七(しかこぶんしち)・一竿斎宝洲(いっかんさいほうしゅう)>

 山崎麓氏編の『日本小説書目年表』によると、享保13年(1727)に歌舞伎狂言を翻案した浮世草子『女将門七人化粧』が江島其磧(えじまそせき)・八文字自笑(はちもんじじしょう)の共書のかたちで上梓されている。本書の序文に「古人八文字自笑が作にあれど、やはり所謂狂言綺語(きょうげんきご)、更に取り止りたる處なきを、氏が学識を以て正史実伝、それぞれと捜索せられ、更に意匠を盡(つく)して作られし七人化粧の六幕ー」とあるので、文七と宝洲が自笑の作を原本として改作し、戯曲化したものを上下巻として出版したことになる。
 本書の角書(つのがき)に〈勧懲十八番〉とあるのは、作者の自著の正本十八種に由来するという。本書の内容は相馬家再興に至る発端よりの艱難辛苦(かんなんしんく)、その中に忠臣、孝子、節婦、儀僕(ぎぼく)たちの愁嘆や悲哀など七つの感情を描くというところに特色がある。
 尚、歌舞伎の将門狂言に女方芝居が登場するのは、記録の上から見ると元禄13年(1700)江戸山村座にかけられた『艶冠(つやかんむり)女正門』が最初と思われる。享保16年(1721)には、京都の早雲座で『女正門七人化粧』が上演されているが、この狂言が具体的にどのような内容のものであったかは明らかでない。それよりも6年後に、歌舞伎狂言を翻案した浮世草子『女将門七人化粧』が合巻で出版されていることを考えると、早雲座の上演した戯曲の作者は、京都の江島其磧(1666~1735)であろう。其磧の作品に自笑が改作を施し、さらに自笑の『女将門七人化粧』に、相馬家再興の説話を盛り込んで戯曲化したのが本書という経緯を読み取ることが出来よう。

9.「絵本実録・平親王将門実記」

(忠平公の勅許(ちょっきょ)を得て貞盛帰郷の段)

作品名:「絵本実録・平親王将門実記」 明治24年11月刊 
<著者:不詳 発行者:牧金之助>

 『将門記』の史料的批評と紹介とを主な内容とした星野恒『将門記考』が『史学雑誌』に発表されたのは、明治23年末であった。この論考に導かれて将門研究は大いに発展をみることになるが、この時点までは近世以前に弊害を流した異説・伝説による読本や絵本が主流を占めていた。
 本書も「関八州を手に入れて猿島郡に都を建て、大内裏を構えて、これより都を押し上り、今上帝を除いて自ら新皇帝と仰がせてー」という書き出しで始まっている。
 上野(こうづけ)国庁における皇位宣言と文武百官の任命、将門の野望、そして朝廷軍と呼応した貞盛と秀郷軍との合戦、将門の最後までを古書や伝説、説話のたぐいを巧みに配合した物語にまとめ上げている。
 前例と同じく将門逆賊説の上に立って書かれているのは、多分に皇国史観の前兆を示すものと考えられるが、その後、『将門記』の内証的な研究がすすむことにより、将門を描く作品も近代文芸化されることになった。