錦絵と将門

1.「将軍太郎良門」

作品名:『将軍太郎良門』
絵 師:歌川国安(1794~1832)

 浮世絵の「浮世」とは、本来、仏教用語の憂(う)き世が改まったもので、当世や現在と同意義の言葉である。
 現世を題材にした浮世絵を創出し、江戸に開花させたのは菱川師宣(ひしかわもろのぶ ~1694没)といわれ、元禄期の庶民の間に広まっていた享楽的な価値観に支えられて大いに持てはやされた。肉筆浮世絵とともに版本挿絵も手がけ、これまでの版画を文章に従属する挿絵から「一枚摺」という絵画に独立した様式を作ったのも菱川師宣である。それ以降、浮世絵は肉筆と版画という性質の異なる分野を育み、広く庶民に愛好されるようになった。
 浮世絵の流行は、印刷技術の飛躍的な進歩を促した。初期には墨一色の線描だった墨摺絵(すみずりえ)から、丹一色の手彩色で要所を塗る丹絵(たんえ)に進み、さらに三、五色を使って手で彩色を施す紅絵(べにえ)、髪や衣装の一部の黒い箇所に膠(にかわ)を混ぜて光沢を出す漆絵(うるしえ)へと展開した。その後、手彩色から版を重ねて彩色を施す紅摺絵(べにずりえ)が完成すると量産化が可能となり大衆化し、色鮮やかな錦絵(にしきえ)が誕生した。錦絵を主流とした浮世絵は、江戸期の文化の旗手となり多種多様な分野に彩りを添えてきたといえよう。
 たとえば、画題としては役者絵や美人画が一般的に知られているが、その範囲はきわめて広い。各地名所の風景画や花鳥画、相撲絵、当時の世相を風刺した滑稽画、文明開化の社会風俗、西洋的な文物など画題の分野は十八種もあげられている。しかし、明治初期に西洋の新しい印刷技術や写真の普及にともない、錦絵の役割とその技術は大きな打撃を受けた。新たな形で近代美術の中に引き継がれることになった。
 錦絵制作は、主として分業制による共同制作がおこなわれていた。一般的な仕事の流れを見ると、まず、どのような錦絵を作るのかを企画し、その資金提供するのが「版元」である。版元の依頼で版下絵を描くのが「絵師」、版下絵をもとに版木を製作するのが「彫師」、版木を使って彩色するのが「摺師」という順序になる。版画に版元、絵師、彫工、摺師の名が押印されているのは共同制作の証明なのである。
 上掲の武者絵は、将門の嫡男とする『前太平記』を素材にして、戦場に急ぐ将軍太郎良門の騎上勇姿を描いたもので「縮緬絵」(ちりめんえ)と呼ぶものである。縮緬絵とは、普通の錦絵を棒に巻き、揉(も)んで皺(しわ)をつけて縮緬の布に似せたことによるという。特別の趣をみせるのは、天地左右とも非常に縮小し、画線も独特のものとなり、色彩が濃くなる特色の故であろう。

原寸 20.5cm×14.5cm

2.「将門・公連の諫言(かんげん)を叱責す」

作品名:『将門・公連の諫言(かんげん)を叱責す』
絵 師:歌川国芳(1797~1861)

 この錦絵は、名作「水滸伝豪傑錦絵シリーズ」の絵師として知られた歌川国芳の描いた続絵である。複数の版画によって一つの画面を構成する意図のもとに制作された版画のことを続絵と称している。これまでの版画は、版木や用紙の制約上、または、彫工、摺師らの分業に係わる条件から大奏書紙を二つ切りにした大判(39cm×27cm)を基本単位とする小画面で制作してきたが、それよりも大きな画面を得るため、または画面に変化を求める方法として考案されたのが続絵(続揃物ともいう)であった。
 続絵の最も一般的なのは竪大判を横に二枚ないし三枚続けた形式だが、四枚から十二枚続きという例外も見られる。枚数が多くなれば画面に物語性が求められて絵巻の構図に近い場面が多く描かれている。しかし江戸末期以前の場合は、続絵も単独でも鑑賞できる作品が多く遺されていて絵師たちの苦心のほどが窺える。 続絵の構図については、公連(きんつら)の姿絵上部に「叛心将門は六郎公連が諫(いさめ)を憤り、武蔵五郎貞世に命じて扇で打しむ。後、伯父常陸大掾の国香を亡し、下総国相馬郡に居所を構て都と名號(なづけ)、自身平親王と官爵(かんしょう)、其威近国に振ふ。―」と記している。
 『将門記』に平将門の弟将平と伊和員経(いわのかずつね)が、将門の新皇僭称(せんしょう)に深い懸念を抱いて諫止する場面が描かれているので、その叙述文を踏まえて脚色した構図である。
 この舞台の背景には、将門新皇をめぐって陣営の中に意見の対立があり、興世(おきよ)王らの積極論に対して将平らは慎重論を唱えていた。将門が前者に従って行動していく過程での彼なりの説得を行う場面。 現実的には、すでに国家的叛乱に突入していて、今更引き返せない状況に立つ将門の立場としては、暫時坂東を占拠して既成事実の上において京都と交渉する以外に方法はなかった。その苦しい心情を潜ませた将門の表情を十分に表現している。

 諫言に憤怒の相を表す将門(右)
 将門の命令を受けて鉄扇で打つ貞世(中)
 額を打たれて無念ながら控える公連(左)

原寸37cm×25cm (3枚とも)

3.「百鬼夜行・相馬内裏」

作品名:『百鬼夜行・相馬内裏』
絵 師:落合(歌川)芳幾(1833~1904)臨写印刷
発行者:福田熊次郎  明治26(1893)年刊

 上掲の絵は、相馬内裏跡に本拠を構えた滝夜叉姫(たきやしゃひめ)が将門の遺志を継ぎ復讐の鬼となって妖怪変化の類いを集めていた。その動向を聞き及んだ多田満仲の家臣大宅光圀(おおやみつくに)が旧内裏を内偵することになる。実際の本性を暴かれ、光圀の兵に包囲された姫が狂乱する様を描いた三枚の続絵である。
 滝夜叉姫が筑波山の蝦蟇(がま)の毒気にかかって、変心し、将門の霊と七人の分身、大蛇、化け蜘蛛(くも)などの妖怪を引き連れて復讐するという構想は、山東京伝(1761~1816)の読本『善知烏安方忠義伝』(うとうやすかたちうぎでん)で扱われた奇抜な着想を用いたものであろう。
 将門の遺児をめぐる復讐譚という着想は、将門びいきの江戸町人の関心を捉えて狂言や歌舞伎の顔見世興行に取り上げられた。なかでも山東京伝の読本を脚色した通称「将門」や「滝夜叉姫」、浄瑠璃名題の「忍夜恋曲者」(しのびよるこいはくせもの)は、将門山古御所を舞台の名場面として迎えられた。
 滝夜叉姫については、父の非業の遺志を継いで謀反を企てる妖怪の美姫という印象が強い。正史に記録はなく『前太平記』にその名が見え、尼となった旨が記されている。『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)の将門三女の如蔵尼(にょぞうに)の話を取り合わせて脚色し、創出された美姫であろう。つまり如蔵尼が変化して滝夜叉として現れ、非業の最期を遂げた父将門の仇を報する復讐者となった。
 大宅光圀の武勇と滝夜叉姫の妖術との抗争の中から、姫の無念の怒相が見て取れる。

原寸36.7cm×24.7cm (3枚とも)

4.「岩井郷・相馬の古内裏」

作品名:「前太平記」より『岩井の郷・相馬の古内裏』
絵 師:歌川国輝(生没年不詳)
制作期:(1818~1860)

 この掲画は、歌川国貞の門人であった貞重が国輝と改めた頃の作。嘉永元年(1848)から安政2年(1855)に、二代目国彦を名のるまでの時期に制作した二枚続浮世絵である。
 表題に、「前太平記」と誌しているように、藤本元の『前太平記』(1803)を素材にして幾通りかの連作を意図した中の続絵と思われる。
 詞書には「滝夜叉姫は平将門が女児なり。若年より仏道に帰依して敢て姻娶(とんじゅ)を厭ひ、将門亡ぶるに及びて奥州へ下り、女僧(あま)となりて行ひ澄(すま)す。弟平太郎を養ふこと千茲(ここに)十五年平太郎身の素性をききて忽ち父の仇を復すの志あり。姉しばらく諫(いさむ)れども可(きか)ず。自ら将軍太郎良門と名号(なのり)播州三石の奥に柵を構へて謀叛を起し、一味をかたらひ頃ときに永延三年(989)三月二十三日、旗を揚て多田満仲が新田の城を攻む。」とある。
 平将門には幾人かの娘がいたようである。平良文の三男恒明に嫁した娘、第二女の春姫こと如春尼、第三女は地蔵菩薩に帰依して如蔵尼と名告っている。『前太平記』の叙述では如蔵尼の化身となった滝夜叉姫と武蔵権大夫興満が将門に敵対した源経基の嫡男多田満仲の城を攻める。さらに猿島郡岩井郷の相馬古内裏に移って再起を図る準備をすすめていた。滝夜叉の本性を探りに来た多田満仲の武将光圀の従者を捉えようと争う場面があり、本画はその戦う勇姿を臨場感あふれる筆致で描いている。
 この続絵を見ると、各々が独立して鑑賞できるように配慮した構図になっているので気付かないが、主役の平太郎良門の姿絵が見当たらない。本来は三枚続浮世絵であり良門の勇姿の一枚が欠落しているものと思われる。

原寸36.4cm×24.5cm (2枚とも)

5.江戸の花 「名勝會」

作品名:江戸の花『名勝會』  
絵 師:歌川豊国(1786~1864)、歌川貞秀(1807~1877)、歌川芳虎 (制作期1836~1887)

 江戸時代から東都名所に数えられていた神田明神社、その祭神に祀られた平将門との来歴を上記三画人が滑稽洒脱な構図を通して描いた木版画である。添書に八番組とあるので、東都の名所八カ所を選んで八枚一組とした案内絵と思われる。
 掲画は、三代豊国の門人で文明開化絵や国郡名所絵を得意とした貞秀が神田明神社の境内風景に風流の想いを示すと、師の豊国はその風流に彩りを添えた歌舞伎狂言「世善知烏相馬旧殿」(よにうとうそうまのふるごしょ)が、江戸市村座で開演して評判となったことに転じさせた。
 豊国は狂言の中で、俳優尾上菊五郎が演じた滝夜叉姫の半身姿を描き、父将門が敵将貞盛の妻に贈った歌「よそにても風のたよりに我そとふ枝はなれたる花のやとりを」を偲ぶ場面を描いて、貞秀の風流に唱和させている。その趣意を汲んだ芳虎は連歌の変化を用いて神社由来を「将門の亡念、打来て、首が飛んで石をかりかり神田(かんだ)」と戯画化したものである。

原寸35cm×24.5cm

6.役者絵 「平太郎良門」

作品名:役者絵『平太郎良門』
絵 師:歌川豊国(三代)1786~1864

 役者絵とは歌舞伎の役者を描いた絵で、美しい女性を描いた美人画とともに浮世絵の主要な分野である。
 役者絵を大別すると、役者が舞台で演じている姿を描いたのを役者舞台絵と称し、役者の胸から上の半身像を描いて顔面をクローズアップしたものを大首絵(おおくびえ)という。舞台姿を描くだけでなく、舞台を離れた楽屋姿や役者の日常の姿を描いたのが日常姿絵である。
 嘉永六年(1853)に刊行した『江戸寿古細撰記』(えどすなこさいせんき)に「-豊国にがほ、国芳むしや、広重めいしよ」と、当時の浮世絵名人を並記している。掲画の豊国を役者絵師として見ていたことが知られるが、初期の出世作は読本に始まった。
 山東京伝作・歌川豊国画の読本『善知烏安方忠義伝』(1807)が刊行されて評判を取りこの読本を脚色した戯曲が歌舞伎狂言として演じられると、その役者大首絵を豊国が描いた。掲画はその中の一枚である。
 平太郎良門が繋馬(つなぎうま)の絵柄の単衣を着て、口をへの字に結び、眼は相手を見据え、右手は石にかかった構図は緊迫感をみなぎらせている。
 なお、画中に役者名が記されていないのは江戸末期の手法である。

原寸35.5cm×24.8cm

7.「今様押絵鏡」-平太郎良門-

作品名:『今様押絵鏡』-平太郎良門- 
絵 師:歌川豊国(三代)1786~1864

 国貞改め三代豊国は、初代豊国の築き上げた歌川派を実質的に継承して、幕末期の浮世絵画壇の中心的な絵師として活躍している。年譜によると安政6年(1859)に「増補・夏祭礼男鑑」と「今様押絵鏡」のシリーズを刊行したが、掲画はその役者絵の中の一枚である。
 作品名の今様とは「今様歌」(いまよううた)の略で、当世風・現代風の意。平安時代の中頃から後期にかけて盛んに行われた七五調の歌謡を指すが、掲画では歌謡を発句(俳句)に替えたのは、この期に俳諧が大衆化していたことに因ろう。
 このシリーズは、江戸末期に活躍した歌舞伎役者の役柄とその容姿を円形の枠の中に半身図として描き、上部に詞書の意を含めて発句を掲げた構図で統一し、人物が映えるように画面全体を整理した構成には豊国らしい非凡さが窺える。
 因みに、嘉永元年(1848)に河原崎座で上演された歌舞伎「東都内裡花良門」では、良門役を八代目市川団十郎、滝夜叉姫を四代目尾上梅幸が演じた。掲画は、美男の誉れのあった良門が舞台に立つ前の姿か、その表情には張り詰めた意気が感じられる。
 馬の背に 蝶の似様むる 小春かな  児雀

原寸34.6cm×25.1cm 

8.役者絵 「平太郎良門」

作品名:役者絵『平太郎良門』
絵 師:歌川豊国(三代)1786~1864

 初代豊国の没後、国貞が豊国を襲名して名実ともに歌川派の総帥(そうすい)となって活躍した。最晩年の万延元年(1860)から刊行された役者大首絵(おおくびえ)シリーズは、ともすれば下品になりがちな発色のよい鉱物性の顔料を用いて異様なまでの迫力に満ちた画面を作りだして注目された。
 掲画にもその趣きが感じられると同時に、画面全体を整理する構成力と色彩のバランスのよさは、豊国の特色を示している。
 『日本演劇史年表』に、天保7年(1836)に江戸市村座で山東京伝の読本を脚色した歌舞伎狂言「世善知烏相馬旧殿」(よにうとうそうまのふるごしょ)を演じて好評を博したとある。
 読本によると、将門と貞盛・秀郷軍との乱戦のさなかを辛うじて遁れた将門の娘は、乳母に授けられて陸奥の国に逃げて隠れ住み、亡父の菩提のため仏門に入って法名を如月尼と改めたという。如月尼には平太郎良門という異母弟がいて、その養育のため筑波山の麓に移り住むことになった。成長した良門は、筑波山中で蝦蟇(がま)の精霊から妖術を学び、やがて父の素性を明かされると一途に復讐の念を抱くようになった。
 如月尼が滝夜叉となり、良門とともに復讐の鬼となって悪行を積むのは蝦蟇の妖術のなせるわざという着想の奇抜さが庶民に受けて、再々の上演となった。掲画は平太郎良門が蝦蟇に変身して妖術を唱える舞台場面を描いた大首絵である。 舞台上では、やがて平太郎良門が将軍太郎良門と改称して姉の滝夜叉とともに相馬内裏の再興の企てに狂奔する場面に転じている。

原寸32cm×23.2cm

9.「総州猿島大内裏之図」

作品名:『総州猿島大内裏之図』
絵 師:歌川芳艶(初代) (1822~1866)

 江戸後期の武者絵といえば歌川国芳であった。掲画の芳艶は国芳の門下に列して一榮斎、一英斎と号し、師ゆずりの武者絵を得意としたが、なかでも『前太平記』の英傑譚に題材をもとめた「源頼光足柄山入之図」や「大江山酒呑退治」などは名高い作品である。
 他方、芳艶は性格的に江戸庶民の粋に感じ易い一面もあり、歌川国輝と競って刺青(いれずみ)の下絵を好んで描いた。「児雷也」などはその代表作のひとつである。
 天慶2年(939)将門は国家に向かって反乱を起こし、王朝国家にたいして独立国家の樹立をめざした結果、関八州を征服して自ら帝位についた。そして新皇としての威を示すために本拠地に宮殿をつくり、王朝政府と同様に文武百官を任命した。世相の逆賊観と併せて将門にかかわる伝説には好意的なそれが多い。その一端は江戸期に描かれた錦絵や読本に見ることができよう。
 掲画の詞書に「柏原親皇六代の孫、良兼(良将)の子平将門伯父常陸の大掾(だいじょう)国香を亡ぼして後に関八州を領す。新司藤原公雅、前司全行の諫(いさみ)を憤り、武蔵五郎竹芝に命じて彼を打たしむ。下総国相馬郡の磯橋を限り、王城を構え、自ら平親王と号す」とある。
 『将門記』に、平将平と小姓の伊和員経(いわのかずつね)が新皇僭称(せんしょう)に懸念をいだいて諫言(かんげん)する場面があり、掲画はその趣意をふまえて脚色した構図である。
 帝位についた将門が諸国の国司と武将たちの控える面前で諫言した者を鉄扇で打つしめる緊迫した場面を前段に描き、後段には玉座の将門を中心に家族たちの姿を描いている。具体的には右側に滝夜叉姫と女官を配し、左側には側室が幼少の良門を抱き上げ、あやす女官らを描く構成は前段の緊迫さと対照的な雰囲気である。芳艶の軽妙な粋が感じられるのは、東国支配を実現した将門への思い入れに因るものと思われる。

原寸34.6cm×23.4cm (3枚とも)

10.「相馬太郎良門・再将門山におゐて籏上(はたあげ)の図」

作品名:『相馬太郎良門・再将門山におゐて籏上(はたあげ)の図』
絵 師:歌川芳盛(初代) (1830~1885)

 初代芳盛は、歌川国芳の門下に列し、師の画風を踏襲して一光斎・桜坊と称した。武者絵を得意としたが、風俗画や花鳥画、草双紙の挿絵なども手がけ「末広五十三次」の制作にも参加したといわれている。
 掲画は『前太平記』の「平良門蜂起ごとにつき多田攻の事」と、山東京伝の読本『善知烏安方忠義伝』を用いて構成した三枚続絵である。
読本によると、亡父将門の復讐心を抱いた良門は、奥州を発って国々を巡り、武芸を琢磨し仲間を募って、播州三石の奥に柵を構えて西国第一の要塞という新田城を攻めたが、源頼光の前に敗れた。再び加勢を集めようと立山連山の地獄谷に出向いて、伊賀寿太郎と出会った。
 「西海の猛将、伊予掾藤原純友の補佐役の臣と呼ばれた伊賀寿太郎は、通称を活閻羅(かつえんら:現世の閻魔)大王と称す。亡父孝養のため義兵を起すべく身を粉にして諸国をめぐり味方を集めるといへども、いまだ補佐を得ず。はからずも汝に遇しは大儀成就の端相なりー」と、頼光への復讐で意見の一致をみた伊賀と良門は反撃を企てて将門山に籏上げすることになる。掲画の構成上の背景である。
源頼光の四天王と称する渡辺綱、卜部季武、臼井貞光、酒田公時らが将門の遺児による復讐譚の中に現れるのは、江戸後期の読本からで、文字どおり奇想天外な展開を見せている。
 掲画を見ると、老将の伊賀が崖上に立って先陣同志が混戦する状況を眼下に、味方の兵士を鼓舞する姿には凄絶な悲壮感がみなぎっている。伊賀とは対照的に後陣に控えた渡辺綱の隊列が粛として乱戦状況を見守っている構図は、源氏の優位を暗示するものであろう。
 やがて後陣が加わった激戦が展開される中で、良門は渡辺綱に捕らえられ、首を切られて、父の非命を愁いた野望は露と消えることになる。

原寸36.9cm×24.5cm (3枚とも)

11.「相馬内裏合戦」

作品名:『相馬内裏合戦』   
絵 師:歌川安秀 (作画期 1818~)

 浮世絵師の歌川安秀については不明な点が多い。初代豊国の門下で、国直、国丸とともに三羽烏のひとりと称された国安に師事し、役者絵、武者絵などを得意としていたといわれる。
 元禄期の赤穂浪士による吉良邸討ち入り事件は、その後の江戸文芸に大きな影響を及ぼした。俗に、復讐ものと称する作品、なかでも、将門ものが四天王ものなどと融合して、舞台にかけられた。享保9年(1724)竹本座で、近松門左衛門の戯曲「関八州繋馬」が上演されたのを最初に、多くの作品が発表されるようになった。とくに、源頼光と四天王ものの場合は、将門よりもその遺児たちをめぐる復讐譚が中心を占めている。
 掲画は、頼光と四天王ものに『善知烏安方忠義伝』(うとうやすかたちゅうぎでん)の続編を用いた構図である。父の非命を愁いて復讐を誓った滝夜叉姫と良門は、秘かに同志を募り、準備をすすめていたが、その動きを察知した頼光は、先手を打って相馬内裏を襲撃し、その野望を砕く。
 構成を見てみると、一枚目(右)では、黒馬に乗った藤原純友の残党・伊賀寿太郎と、頼光軍の先陣を務める臼井貞光との直接対決を前面に配置し、その後方に、良門の従者である金剛十郎と大宅光国との争い、遠景に、内裏に突入する騎上の源頼光を描いている。中絵には、良門の従者・筈屋(はずや)四郎と武運五郎を両脇に抱えた主馬助金時の勇猛怪力、卜部季武(うらべすえたけ)と白刀を交える荒猪丸らの混戦模様をリアルに描く。三枚目には、相馬太郎良門と渡辺綱が馬上で取り組む姿、後方の楼(たかどの)には、薙刀(なぎなた)を構えて乱戦を見守る滝夜叉姫と女官たちを配している。
 合戦絵巻を意図するような構図と臨場感あふれる勇姿は、頼光と四天王の力量を誇示するかのような印象を抱く。やがて、相馬内裏の合戦は宮殿楼閣を悉く焼失し、灰燼と化すこととなる。

原寸36cm×25.8cm (3枚とも)

12.「相馬の古内裏」

作品名:『相馬の古内裏』   
絵 師:歌川国芳(1797~1861)

 粋でいなせな気風で江戸庶民に親しまれた絵師といえば、歌川国芳であろう。彼は武者絵を得意とした。
 武者絵は、美人画とともに浮世絵の双へきをなし、俗に、伝説物語、歴史上の英雄、豪傑、武将や合戦場面を描いたもので、明治初期まで主流を占めた。なかでも国芳は、当時「武者絵の国芳」と称され、力強く、勇壮な作品を数多く描いたことで知られている。
 国芳は、広重(1797~1858)と同じ年に、日本橋の染物屋に生まれ、15歳の頃、初代豊国に入門して修行したが、当初は、世に迎えられず、不遇な時期が続いた。 国芳の出世作は、文政10年(1827)頃の、『通俗水滸伝豪傑百八八之一個』と題した連作である。この武者絵シリーズが爆発的なヒットとなった背景には、前年から刊行が始まった曲亭馬琴(1767~1848)の読本『傾城水滸伝』が引き金となって急速に高まった水滸伝ブームがあったと思われるが、大好評を得た最大の要因は、登場する英雄たちの力強い形態と、大胆で躍動感溢れる構図の魅力であろう。
 水滸伝シリーズに成功した国芳は、その後、大判三枚続の画面いっぱいに、巨大な鯨や鮫、蛸などの生物を横長に描くという意匠と、緻密な描写による新しいスタイルの三枚続絵の領域を拓いた。
 源為朝の勇姿を創作した馬琴作『椿説弓張月』(しゅんせつゆみはりづき)取材の作品、「讃岐院眷属(けんぞく)をして-」の怪魚や「宮本武蔵の鯨退治」の格闘場面などは、息を呑むばかりの迫力と特異性に満ちている。掲画もこの作品傾向を示した国芳の代表作である。
 掲画の詞書(ことばがき)に「相馬の古内裏に将門の姫君、瀧夜叉(たきやしゃ)、妖術を以て味方を集むる。大宅太郎光国(おおやたろうみつくに)、妖怪を試さんと爰(ここ)に来り、意に是を亡ぼす。」
 承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょうのらん)の平将門とその遺児による復讐譚(たん)を物語った山東京伝の読本『善知烏安方忠義伝』(うとうやすかたちゅうぎでん)の一場面に想を得ながら該当場面を大胆に翻案した発想は意外性に富んでいる。この発想の底流には、葛飾北斎の影響があろう。
 舞台は、北斎の怪奇趣味の中から創出した『百物語・こはた小平二』を参考に、かつて将門が築いた下総相馬の政庁の廃屋において、将兵を集めて父の仇を討とうと画策する瀧夜叉姫の野望を、源頼信の忠義の家臣大宅太郎光国が、うち砕こうとする場面である。
 内裏の玉殿に朽ちて醜くぶら下がる御簾(みす)を分け、天井から舞台をのぞき込むかのように巨大な骸骨が現れる。その正確な人体骨格の描写には、陰影を用いて気味の悪さを潜ませ、あたかも将門の悲憤の霊を象徴するかのように、見る者に強烈な印象を与える。

原寸35.7cm×25.5cm  (3枚とも)

13.「総州猿島内裏圖」

作品名:『総州猿島内裡圖』 
絵 師:楊洲周延(ようしゅうちかのぶ 1838~1912)

 徳川幕府の最後の将軍慶喜が退いて東京遷都が行われ、新しい政府が開国施策を示すと、国民は文明開化と呼ぶ西洋文化と向き合った。西洋の文物が怒濤(どとう)のように押し寄せ、急速な近代化への変化に心躍らせた。浮世絵の絵師たちも西洋文化の吸収に取り組み、古い殻を破って新しい時代に対応することになった。そうした風潮のなかで、かたくなに江戸風を守って武者絵を描きつづけたのが歌川国周(くにちか)である。掲画は、国周に師事した周延(ちかのぶ)の作品。
 絵師、周延は国周の画風を継承する反面、文明開化の諸相を題材にした風俗画や徳川時代には許されなかった大奥絵を手がけた。なかでも、江戸美人の顔立ちで洋髪・洋装姿の風俗画は、新時代のファッション情報としてもてはやされ、明治美人画の名絵師と称された。また、西洋から流入した染料による鮮やかな赤や紫といった原色を用いたが、その色調は、歴史絵や武者絵の場合には重量感に欠けた。こうした傾向は掲画にも濃厚である。
 掲画の構図をみると、中世のお伽草子「俵藤太物語」(たわらのとうたものがたり)に想を得たことが分かる。叙述文に「-下総の相馬郡に平将門という武士があり、伯父国香を討ってしだいに関八州を制圧し、岩井に内裏を造り、自ら新皇と称して都へ攻め上る勢いを見せていた。軍兵の催しを受けた下野の豪族、藤原秀郷は、将門に同意し、日本国の半分づつを管領しようと秘かに思案して、たたちに岩井へ赴いて将門に対面することになった。秀郷の来訪をよろこんだ将門は、白衣に乱髪という姿で出迎えた上、酒肴椀飯(しゅこうわんはん)を用意して歓待する」という場面が描かれている。
 この物語を踏まえ、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)のひとつ『平沙落雁』(へいさらくがん)に見立てた構図である。
瀟湘八景とは、北宋の宋迪(そうてき)が描いた洞庭湖の勝景であり、同景に模して琵琶湖南西岸の八つの優れた景観を近江八景と称したことは周知のとおりである。
 かつて猿島台地を囲むように鵠戸沼、菅生沼、広河の江などが満々と水をたたえ、その湖面を眺望できる台地上に内裡を想定した周延が、将門と秀郷との初対面の場を掲画のように構成したことになる。
 酒肴を尽くした歓待と観月の宴。満月が湖上から昇り、月の輪にかかった対の雁が飛落する態を、それぞれの思いを秘めて眺めている。やがて、時流に敏感な秀郷は平貞盛に組みして将門を滅ぼすことになるが、ここでは無作法な印象の強かった将門の風流心を表現しようとする思いがうかがえる。

原寸35.7cm×25.5cm(3枚とも)

14.「将軍太郎良門」

作品名:『将軍太郎良門』
絵 師:不詳

 将門の娘如蔵尼が,滝夜叉姫に転身し,非業の最期を遂げた父の仇を報ずる復讐者として表現されるのは,近世に入ってからである。町人文化の発達のなかで,復讐譚が庶民に歓迎されて流行したその原型には,享保9年(1724)に発表された近松門左衛門の浄瑠璃作品『関八州繋馬』(かんはっしゅうつなぎうま)があった。掲画にみる壮烈な闘争場面は,この作品を素材に描いたものと思われる。
 作品『関八州繋馬』によると,良門は父の仇を討つために将軍太郎と名乗って謀反を企て,妹の小蝶を源頼光の館に忍ばせて機会をうかがう。頼光に接近しているうちに小蝶は頼光の弟頼信を恋い慕うようになり,頼信の恋人である江文宰相(えぶみのさいしょう)の娘を頼信の弟頼平と契らせることによって,その仲を割き,頼平を一味に引き入れようと画策する。やがて,良門は頼信が院宣(いんぜん)によって娶(めと)ることとなった伊予内侍(いよのないじ)との祝宴の騒ぎに紛れて頼光暗殺を果たそうとするが,その連絡が露見し,小蝶は殺されてしまう。
 この事件で家を捨て,良門の一味となった頼平は,兄頼信を鞍馬帰りの道で待ち伏せるが,かえって捕らえられ,その身は死罪,妻の父江文宰相は,解官追放(げかんついほう)の宣告を受けることとなる。その執行の日,宰相の妻の萩対(はぎのたい)は,頼平をみずからの手で殺して夫の処罰を解こうと考え,姫にその手引きを求める。姫は夫の身代わりになろうと,火の消えるのを合図に長髪の者の首を斬るように告げるが,このいきさつを知った渡辺綱(頼光の四天王)の従弟,箕田次郎が姫にかわり萩対の刀に刺される。その忠死によって,頼平と宰相の罪も許されることになった。
 他方,頼光の武将らに生け捕られた良門が,頼光の面前に引き据えられた。頼平らは,即座に首をはねようとするが頼光は思う子細があって押し留め,繋馬の旗印を良門に与えて,戦場での再会を約束し釈放する。
 時が流れ,大和の葛城山(かつらぎやま)にこもった良門は,頼信らの討手(うって)を迎え撃つことになり,妹の魂魄(こんぱく)も土蜘蛛となって現れ,敵を大いに悩ませたが,四天王の活躍の前に敗れ,良門の野望は潰(つい)える。
 掲画は,葛城山の最後の合戦,良門の最期の姿を描いたものであろう。
 ここに登場する小蝶は,読本の世界で滝夜叉に転身させる伏線の役を果たしている。

原寸20.2cm×16.6cm

15.江戸の花 「名勝會」

作品名:江戸の花『名勝會』
絵 師:歌川広重 二代目 (1826~1869)歌川豊国 三代目 (1786~1864)鳥井清国(生没年不詳)

 浮世絵の種類は多い。なかでも珍しい部類のひとつに張交絵が挙げられよう。張交絵(はりませえ)とは,一枚の紙面を大小異なる形で区切り,各々別の絵を描いて合わせた絵のことである。貼交屏風(はりませびょうぶ)から考案された形といわれ,歌川広重が好んで用いた。単独と複数の絵師で合作したものとがあり,当シリーズは3人の絵師による作品。
 幕府のあった江戸の名所旧蹟案内を意図した名勝會シリーズの中には,元和2年(1616)に内神田から湯島台に移った神田明神(現神田神社)と江戸城と大名屋敷の風景2枚が収められている。
 掲画の内神田は,かつての芝崎の里である。遊行二世真教上人(ゆうこうにせいしんきょうしょうにん)が将門塚の傍らに草庵を結んで布教の拠点とした。その草庵を芝崎道場と称したが,江戸城の拡張によって浅草へ移転された。しかし将門塚はそのまま大名屋敷内に残されていた。こうした地理と歴史を踏まえて,江戸城と大名屋敷の風景画を二代目広重が描いた。
 広重は初代の最晩年の揃物(そろいもの)として知られた『名所江戸百景』などの作画に参加したと伝えられ,師の没後に名跡を継いで,師に劣らず抒情的な絵を残している。彼の代表作は『諸国名所百景』である。
 「神田っ子,いなせてたずねのたっしゃでも およびないぞへ いさみはた」
詞を添えた広重の問いを受けて,武者絵を得意とする鳥井清国は,庭内に遺されている将門塚に想いを寄せ,非業の死をとげた新皇の霊に焼香する伊賀寿太郎の姿を描いた。伊賀は藤原純友の武将のひとりで,純友・将門の敵である源氏への復讐を霊前に誓う場面が意図されている。
 清国の意を汲んだ歌川豊国は,中村芝蔵扮する相馬良門を登場させ,姉の滝夜叉姫と伊賀の協力を得て,自ら将軍を名乗って謀反を企てる舞台場面へと転じさせた。
 江戸の読本では,良門は筑波山の蝦蟇仙人(がませんにん)から妖術を与えられるので,蝦蟇の姿に変化した良門が妖術を用いて,いましも悪鬼茨木(あくぎいばらき)を美女の姿に変える場面を描いている。敵である源氏の勇将渡辺綱を惑わさんとするが見破られ,舞台は混戦の場面へと転じる。掲画の物語の背景である。 飛退いて しふとき声や 蟇(ひきがえる) 芦東

原寸33.6cm×22.9cm

16.「平親王将門」

作品名:『平親王将門』 
絵 師:歌川国貞 (1786~1864)

 歴史上で,平将門の実像があきらかになるのは,承平元年(931)からである。この年に,叔父の良兼と〈女論〉によって争ったという記録があるが,その内容は定かでない。
 『将門記』によると,平家一族に内部紛争が起こり同5年には,これが拡大して私闘から始まった争乱が国家への反乱に発展した。関東八カ国を支配下に収めた将門は,自ら親皇(天皇)となって,当時の国家権力とは異なる権威創出の行動に出,独立国を打ち立てた。しかし,官軍ともいうべき権威を背負った追討軍のまえに破れたのは,天慶3年2月14日であった。この間わずかに9年である。
 将門の人物像については,天皇を自称した非道の人物,新しい武士の時代を創り出すための英雄的行動を示した人物,との両極端な評価に分けられるが,その内実は,王朝政権に対する最大のレジスタンスであった。無位無官の在野的な将門が農民を率いて,農民を苦しめる王朝政権への抵抗であったと思われる。
 将門の非業の最期から生じた怨霊譚や民衆の人気を裏返してみると,権力者たちの苛政に対する民衆自身の反感であり,その反感が同情を共有してこれを祭るということになった。弱きを扶け,強きをくじく気性の将門を英雄とみなした江戸庶民と同じく,江戸気質を愛した絵師国貞は好んで将門の勇壮な武者絵を描いている。掲画もその中の一枚である。
 国貞は,江戸本所で渡船場を営む家に生まれ,16歳の頃に初代豊国に入門した。文化4年(1807)に浮世絵師としてデビューし,新しい時代の美人画と役者絵に新境地をひらいたことで人気絵師となった。雅号を五渡亭から香蝶楼を用いるようになるのは,生家から独立して亀戸天満宮前に住居を移し,英一蝶(はなぶさいっちょう)の門に入った天保初期といわれ,従って掲画はこの期の作画である。
 掲画をみると,将門の最後の合戦となった北山決戦の場面に七人将門という分身伝説を加えた構図である。
 関東に独立国家を打ち立てたものの,まだ王城も築かぬうちに秀郷と貞盛らが攻め寄せてきた。将門は自ら甲冑に身をかためて駿馬に乗って陣頭に立ち,襲いかかる敵を迎え撃つ。勇猛果敢な勇姿とその背後に影武者を描くことにより,ダイナミックな生涯の死生をかけた武人像を表現している。
 「-天下に未だかつて,将軍たる者がみずから陣頭に立って戦い,みずから討死をとげるというためしはない-」
 『将門記』の作者によって,最も溌剌(はつらつ)かつ壮大な人間として描かれた将門は,源為朝に代表される武士像の原型であろう。

原寸37.1cm×25.6cm

17.「田原藤太秀郷」

作品名:『田原藤太秀郷』 
絵 師:歌川国貞(初代 1786~1864)

 国貞の錦絵の初筆は,文化5年(1808)23歳といわれる。初めの頃は,歴史や読本で知られた武将や豪傑たちの勇壮な場面,合戦の光景など武者絵を描いていた。新しい時代の美人画・役者絵を描いて人気絵師となると武者絵から離れるが,掲画はその初期の作品である。題名の田原藤太とは,俵藤太とも俗称した藤原秀郷のことである。
 下野国(現栃木県)の土豪で田沼地方に本拠を構えていた。下野67郷のうち27郷を勢力圏としていたが,平将門の乱が起こると下野掾(しもつけのじょう)・押領使(おうりょうし)として下総に出陣した。石井の北山で将門を討った功により従四位下,下野守などに任じられ,討伐軍の源経基や平貞盛らとともに軍事貴族として中央に進み,子孫に栄達の道をひらいた。
 最後の決戦のとき,将門は秀郷の放った矢に射落とされたという。彼が射術に勝れていたことは,後の九代の孫になる歌人の西行法師が,源頼朝に召されて,祖先の射法について諮問されたことや,弓の流儀に秀郷流のあることからも窺える。弓術によって超人将門を倒した勇士として英雄視され,さまざまな伝説が作り出されている。
 たとえば「吾妻鏡」には,将門が反乱を企てたとき,秀郷が偽って門客になりたいと申し入れたところ,将門は喜悦のあまり梳(くしけず)るところの髪を束ねず出て対面したので,その軽率さを見抜いたというエピソードを伝えている。室町時代になると御伽草子(おとぎぞうし)の主人公として『俵藤太物語』などに登場してめざましい活躍を見せるが,世上有名なのは,瀬田橋上の大蛇の語りである。
 ある日,瀬田橋の上に横たわる大蛇を憶せず,またいで通ったところ,その大蛇に化身していた竜神の翁に武勇を見込まれ,三上山に巣くう大百足を退治することを懇望される。秀郷は,これを承知して,橋のたもとに待つうちに三上山の百足が現れた。強弓で百足の額をねらって射込むと,さすがの百足も耐えられず,半身を湖水に浸して死んだ。老翁は謝礼として黄金の太刀と鎧を秀郷に与え,これによって朝敵を追討すれば将軍になれると告げる。その予言どおり,秀郷は竜神の助けによって,将門の秘密を見破ることができ,首尾よくこれを討ちとったというのが『俵藤太物語』のあらすじである。
 掲画は,大百足を退治する場面である。秀郷が弓の本弭(もとはず)で百足(むかで)の額を押さえつけ,右足で背を踏みつけた勇姿には,弓術を誉れとする武将の覇気がみなぎっている。

 浦島の女房を藤太 しって居る (浦島の女房とは乙姫のこと)

原寸37.1cm×25.4cm

18.「将門むほんの企て-従弟六郎公連(きんつら)これをいさむ-」

作品名:『将門むほんの企て-従弟六郎公連(きんつら)これをいさむ-』
絵 師:歌川国芳(1797~1861)

 俗にいう19世紀を代表する浮世絵師,葛飾北斎,安藤広重や歌川国貞といった人々とともに,国芳もこの世紀を彩った絵師のひとりである。嘉永6年(1853)刊の『江戸寿那古細撰記』(えどすなこさいせんき)には「豊国ひがほ,国芳むしゃ,広重めいしょ」と当時の名人を並記している。国芳は兄弟子の国貞,のちの三代豊国に次ぐナンバー2の位置を与えられ,武者絵は当代きっての実力者と評価されていた。
 国芳の出世作は,14世紀の中国で,勇敢かつ正義漢あふれる宋江の一味が活躍する物語『水滸伝』に画題を求めた『通俗水滸伝豪傑百八人』シリーズの連作であった。この作品がベストセラーとなり,続いて『三国志』など物語の中で活躍した武将を描いて江戸庶民に迎えられ,画題を中国から日本に移した。将門の乱を始めとして,源平合戦や『曾我物語』『太平記』そして江戸期の『忠臣蔵』など,広く人口に膾炙(かいしゃ)した過去の実話,仇討ち事件の登場人物をモデルとして,大衆向けの錦絵版画に新境地をひらいた。
 天慶の乱やその後の読本,戯曲を画題として巨大な骸骨の襲来を描いた『相馬の古内裏』,筑波山の仙人から妖術を授かって父の仇討ちを決意する『蝦蟇(がま)仙人と相馬太郎良門』,掲画と同じ場面を趣きを換えて描いた『将門,公連の諫言(かんげん)を叱責す』など,国芳が将門について多くの作品を描いているのは,庶民の興味に加え,その開拓精神を高く評価していたからであろう。
 掲画は,常陸国庁を襲撃して国家的反乱に突入した将門が,東国制覇の野望のもとに上野国庁(現群馬県)において,自ら新皇を僭称(せんしょう)するが,舎弟の将平と従者の伊和員経(いわのかずつね)に,こもごもこれを諫止される場面である。
 帝王の業というものは,人智によって競い求めるものではなく,また力ずくで争いとるものでもない」と将平は諫(いさ)め,「諫言に心を留めて,よりよい思案をめぐらされたご裁断を下されるよう」伊和員経は諫めた。
 将門は「ひとたび口に出した言葉は,四頭だての馬車でおっても追いつかぬという。すでに口に出した以上,成し遂げねばならない。いったん決められた議をくつがえすなど出来るはずはない」と怒り,やがて新政府の構想のもとに諸国の除目(じもく=官に任ずる)を発令して,東国独立国家が動き始めるのである。
 掲画に描いた人物の顔貌(がんぼう)には,異なる肌色を刷り重ねて,立体感を表出するなど,異彩を放つ作品となっている。

原寸 36.3 cm× 24.5cm (3枚とも)

19.「善知関の狭布旗をうはひ合の図」

作品名:『善知関の狭布旗をうはひ合の図』
絵 師:歌川豊国(三代)(1786~1864)

 山東京伝の読本『善知烏安方忠義伝』(うとうやすかたちゅうぎでん)は,未完の作品で,将門の嫡男良門の最後を物語る続編の構想があったが,その内容の予告だけで終わっていた。再び筆をとって,合巻にまとめ『親敵(おやのかたき)うとうの俤(おもかげ)』と題して出版したのは文化7年(1810)である。
 この刊本は,明治19年に『将門山瀧夜叉姫物語』と改題して再版されたが,二編とも将門の遺児をめぐる復讐譚に,鳥を殺す以外に生きる道を知らなかった猟師の死後の悲しみ,苦しみを描いた謡曲「善知烏」の筋を加味したフィクションである。
 掲画は,謡曲の舞台となった陸奥国の外ヶ浜(現・青森市)の善知関。登場人物の将軍太郎良門は,将門の嫡男で,幼い頃から弓箭(きゅうせん)を好み,牧馬を馳(か)けては,合戦の術を修め,筑波山に住む仙人から蝦蟇の妖術を授かった。父将門の非業の死を知ると,復讐を誓い,諸国をめぐって同志を募り,ここ外ヶ浜にて,善知安方とめぐりあうのである。
 安方は,将門の忠臣,六郎公連(きんつら)の子。将門が新皇僭称(せんしょう)して,文武百官を任命する評議を開くと,大いに嘆き,和漢の先例を示して諫言(かんげん)したが,用いられず諫死した。将門はそれを憤り,公連の家を没収し,一子次郎安方を捕らえて国外に追放する。彼は,父の非命を悲しみ,ともに自殺しようとするが,それを妻が押し止め,夫婦ともに奥州外ヶ浜に下り,猟師となって,歳月を過ごしていた。風の便りに,良門が復讐を企てていると聞いて安積山(あさかやま)に良門を訪ねて諫死した。
 錦木(にしきぎ)は,安方の妻である。物語では,安方の死後,貧しさに耐え,苦労をかさね,細布を織って一子千代童(ちよどう)を養うが,悪徳医師に恋い慕われ,生き地獄の責めを受けても操を守りとおして憤死する。死後,魂魄(こんぱく)が鳥となって,夫の死路をたずね,夫婦の亡魂は,良門の野心を諫め続ける。 補足すると,錦木が死の直前に千代童に告白する。猟師の子ではなく,平将門の従者の子と知った千代童は,やがて父の意志を継いで良門の謀反を諫めようと決心するという,親子三代の忠義を物語るのが掲画の背景である。
 掲画では,安方を猟師から関守に移し,繋馬(つなぎうま)を描いた狭布旗(けふのはた)を奪い取ろうとする良門,旗を渡すまいと争う安方と錦木の姿を外ヶ浜を背景に描いている。
 詞書には,「陸奥(みちのく)の外ヶ浜なる呼ぶこ鳥 鳴くなる声は善知烏安方」とある。和歌は,飛鳥(ひちょう)の人に劣らず深く子を思うことを詠んでいる。忠義の姿を潜ませた表現である。

原寸 37.6 cm × 25.5 cm(3枚とも)

20.「瀬田橋上に秀郷 龍女を救ふ図」

作品名:『瀬田橋上に秀郷 龍女を救ふ図』
絵 師: 安達吟光(生没年不詳)

 幕末から明治末期に活躍した吟光は,本名を安達平七といい,初め松雪斎(しょうせつさい)銀光と称していた。明治7年以降は吟光と改め,主として時局絵,役者・芝居絵を描いた。
 掲画は,暦法による十二支の連作の中の1枚で,明治29年に臨写した作品。十二支の5番目に当たる辰(龍)が主題である。
 藤原秀郷が『将門記』の中に登場するのは,将門が貞盛探索に失敗した後,軍団を解いて兵たちを郷国に帰休させ,将門身辺の兵が全くの手薄になっていたときである。兵を帰休させることを知った貞盛と秀郷が連合軍を発起して攻撃を加え,この軍勢の前に将門は滅ぶことになる。この功により秀郷は,従四位下に任ぜられ,武蔵・下野国の国守となり,その子孫たちは,朝廷の官人となってますます繁栄した。
 平安期の武将として知られた秀郷が文芸作品の上に登場するのは,室町時代の御伽(おとぎ)草子『俵藤太物語』である。
本書によると,朱雀院(すざくいん)の時,秀郷が東国に下向するため,琵琶湖から流れる瀬田川に架かる橋を渡ろうとすると,大橋の中途に大蛇が横たわっていた。彼が,平然と大蛇の背を踏んで通り過ぎた夜,美女(龍神の化身)の訪問を受け,三上山に棲(す)む百足(むかで)退治を頼まれる。快諾した彼は,5人張りの弓,15束3伏の矢で百足を射止めた。
 翌日の朝,再び美女が訪ねてきて,「衣装に仕立つるところに,裁(た)てども裁てどもつきす」という巻絹(まきぎぬ)と,「俵をひらきつつ,米を取り出すに,是もつひにつきず」という首を結んだ俵,「鍋の内には,思ふままの食物わき出(いで)ける」という赤銅の鍋を秀郷に謝礼として与えたという。
 続いて,龍女の案内で龍宮に招かれて饗応(きょうおう)した後,引出物に黄金札の鎧(よろい)と太刀,それに釣鐘を土産として貰い受ける話,最後が,下野国に居住して近隣に威をふるい,天慶3年2月の将門討伐を描く武勇譚(たん)からなる3部構成である。
 この物語の中で最も力がこめられているのは,将門の超人性と,その秘密をめぐっての探索のモチーフであろう。そこに,将門の妃小宰相(こざいしょう)などが登場し,御伽草子らしい彩りが添えられていて,近世文芸に通い合うものがあることを感じさせる。
 掲画は,瀬田橋上で龍女を扶(たす)ける秀郷の勇姿を描く。秀郷の栄躍は,すべて龍神の応護(おうご)によるものと結んでいる。

原寸23.5cm×35.3cm

21.江戸の花「名勝會」

作品名:『江戸の花「名勝會(めいしょうえ)』
絵 師: 歌川豊国(3代)1786~1864
     歌川広重(初代)1797~1858

 火事と喧嘩は江戸の華とは,江戸っ子の心意気を表す言葉のひとつ。「いろは・四十八組」の町火消の纏印(まといじるし)は,その象徴であった。
 掲画の麻布龍土町は,「江」の五番組として「麻布笄橋(こうがいばし)・貞世(さだよ)の関」を紹介している。現在の港区西麻布3・4丁目さかい,富士見坂下の旧名笄川(こうがいがわ)に架けられた長さ3間に過ぎない小橋であった。往古の東海道は渋谷金王八幡下から東へ,この橋を渡って青山から赤坂方面へ抜けていたので,この橋は古くからその名を知られ,また種々の伝説を残している。橋名の由来もそのひとつである。
 天慶2年,平将門は,常陸大掾(ひたちのだいじょう)国香(くにか)を殺し,やがて坂東を押領する。その頃,六孫王経基(つねもと)公は,箕田の城にいた。
 将門は,大軍を引率して箕田城を囲み攻めてきた。公は,わざと計略をもって城をひらき,この所を通行しようとすると,権守興世(ごんのかみおきよ)は龍川(笄川の古名)に関所を設けて通行を拒み通そうとした。そこで公は,偽りに興世一味の者と告げると,関守はその証拠となるものを示せというので,太刀の笄を渡して通行した。これよりこの橋を経基橋と呼ぶようになったが,後に八幡太郎義家が渋谷八幡を勧請(かんじょう)の時,「先祖の御名を穢(けが)す恐れあり」とし,笄の縁によることから,これ以後は笄橋と称する。と『遊歴雑記』は記している。
 この橋名の由来を素材に描いた掲画をみると,右下は将門の家来である興世王の嫡男,武蔵五郎貞世を配し,似顔は河原崎権十郎(後の9代目団十郎)である。風景画の広重は,画中の和歌に導かれて,笄橋と貞世の関所の全景を描く。遠近の描法は,あたかも路地の奥から清元権八,都々逸の音色が流れてきそうな雰囲気を漂わせて,すこぶる洒脱で面白い。
 上左の龍燈(りゅうとう=神灯)は,菫仙(きんせん)の画。この名勝會の主題を示している。龍燈の右の小書に「賢人世に現じ給ふときは,その地へ龍神美燈を供(そなふ)といへり。今賢備兼(かねそなひ)させ給ふは,六孫王たるべし。さては,経基公この地に下着し給ふらむ」とある。
 明神社に奉納されている龍燈は,源経基公の奉物に相違ない。その龍燈が敬拝の象徴であり,龍土町火消組の花であることを物語っている。

原寸35.9cm×24.1cm

22.「良門古寺に味方を佳(あつめ)京軍と戦ふ」

作品名:『良門古寺に味方を佳(あつめ)京軍と戦ふ』
絵 師: 歌川国芳(1797~1861)

 武者絵の画工と称された国芳には,別称「反骨の絵師」という刺激的な表現も使われていた。江戸っ子気質で,正史よりも野史に登場する人物に興味を示したことによるが,なかでも将門とその一族の復讐譚(たん)に関心をよせて多くの作品を描いている。
 野史の読本の最たる作品が『前太平記』であろう。『通俗日本全史』の諸言に「野史は,事件の本体を正史に採れども,これには付属せる些末(さまつ)の点は,必ずしも史蹟に拘泥せずして,適宜の脚色を施し,人物をして躍然活動せしめんことを期す」とあり,さらに「正史は色彩なき粉本(ふんぽん)にして,野史は五彩絢爛(けんらん)の錦絵なりといふを得べきなり」と述べ,世相の動きを紹介している。
 『前太平記』では,将門の娘の如蔵尼(にょぞうに)は,父の後世を弔う信心深い女で,弟良門の叛意(はんい)を押し留める者として描かれるが,山東京伝『善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』になると,如蔵尼の還俗後の名を瀧夜叉姫とし,将門の宿望であった,中央に対する東国の叛乱を彼女自身の夢として成し遂げようという形に転じさせている。
 この2冊の読本の世界を国芳らしい構図で描いたことは,詞書によって覗(うかが)える。
 良門は「天下を覆して我物をなせば,父の孝養とも成るべけれ,先づ広く国々をみるに,近国に於ては多田の新田城こそ,西国第1の要害なれ,この城を乗り取ってたてこもらば,凡そ日本国の者共が集まりて攻むる共,たやすく落つべき城に非ず。天晴れ,これを攻め取らばなり。」と,瀧夜叉姫と計らい,大和の葛城山の古寺に味方を募って,秘かに合戦の準備をすすめていた。掲画の場面である。
 堂内の光景をみると,須弥壇(しゅみだん)の上に胡座(あぐら)をかいた良門が,地獄谷で知りあい副将となった伊賀寿太郎から京軍の動きを聞く姿,2人の会話を見守る瀧夜叉姫の立姿を描く。その後方の格子衝立の裏側では,晩食の準備をする人,お膳を運ぶ人,左側では軍評議する者たち,柱に釘を打つ姿,あるいは,戦具を備える者など,役割に応じて働く雑兵たちの姿を描いている。
 古寺に集う良門軍の日常の断面を描くという感覚は,国芳らしい戯画の雰囲気がある。
 やがて良門軍は,新田城に押し寄せ,源頼信ら京軍と激しい合戦に及んだ。再度の合戦にも敗れた良門は,四天王のひとりの渡辺綱(わたなべのつな)に組み負け,首を切られた。

原寸36.4cm×24.8cm (3枚とも)

23.「管公牛上の図」

作品名:『菅公牛上の図』
絵 師: 小林清親(きよちか):1847~没年不詳

 江戸期の伝統的な浮世絵から近代版画への橋渡し役として評価される清親は,明治9年に光線画による『東京名所図』シリーズを出版して画壇に登場した。
 光線画とは,暁(あかつき)や夕暮れ,夜の光,雨などの微妙な大気の表情を,陰影によって巧みに表現するという画風である。明治17年頃からは,歌川広重の代表作『名所江戸百景』に倣(なら)った『武蔵百景』を出版して,浮世絵版画への回帰が行われた。掲画は,この時期の作画である。
 題名の菅公とは,菅原道真のことである。道真と将門の接点を探ると,『将門記』に,将門が新皇を称する際,その軍中の巫女が神がかりし,-八幡大菩薩の使いである,わが位を蔭子(いんし)将門に授く-と口走り,その位記は道真の霊の書いたところだ,とあるのが初見であろう。
 道真は,平安前期の政治と文化面に並ぶ者がない存在感を示したが,その学識の深さ,人望の厚さが国家権力を占める藤原氏の嫉(ねた)みをかう結果となり,政敵藤原時平のざん言によって,筑紫国(つくしのくに)に流配された。
 『菅家文章』によると,京の都で,満ち足りた日々を過ごしていた彼には,配所は厳しいものであった。官舎は,ただ広いばかりで,建物は朽ち果て,道も通ってなく,井戸は塞(ふさ)がって水も汲(く)めない。垣根も破れていて割竹を編んで補修する始末であったという。
 この筑紫国大宰府(だざいふ)で,彼は3年後に世を去った。没後に天災が続いたため,道真の霊が雷神化した怨霊神と恐れられ,冤罪(えんざい)をそそぐ神として崇(あが)められるようになった。その後,彼が詩文に秀(すぐ)れていたことから学問の神として信仰を集めると同時に,芸能,文芸の場としての役割も担うようになる。なかでも『菅原伝授手習鑑(てならいかがみ)』は,その決定版となって,将門者と江戸期芝居を二分する出し物として歓迎された。
 掲画は,肥牛に乗って筑紫の浜辺を通る菅公の騎牛画である。その浜辺には老人から遊びを教わる者,牛に見入る者,子守女と幼童たちが砂の上に文字を書く姿などは,野外教場の光景を思わせ,人々の日常生活の断面が戯画(ぎが)的に描かれている。
 何の権限もなく,仕事さえも与えられない立場に置かれていた道真。彼の唯一の慰めは,肥牛との散策であり,読書に他ならない。戯画でありながら寂しさが漂う画面はそれ故である。

原寸35.0cm×23.4cm (3枚とも)

24.「前太平記文巻川合戦」

作品名:『前太平記文巻川合戦』
絵 師: 勝川春亭(1770~1820)

 掲画は,読本『前太平記』と『扶桑略記(ふそうりゃっき)』の叙す将門最後の決戦を素材にして描いた錦絵版画である。絵師の春亭は,勝川春英の門人で,武者絵を得意としたが,草双紙・読本の挿絵など幅広く作画した。なかでも『歌舞伎年代記』や馬琴の読本『昔語質屋庫(むかしがたりしちやのくら)』の挿絵は,明るく飄逸(ひょういつ)な作風を示し,動きの中の一瞬の美を捉えて見事である。
 『将門記』によると,この乱は,承平5年に平氏一族の間に始まった争いが拡大し,私闘から国家への反乱に発展したものである。東国8カ国を支配下に収めた将門は,東国の独立宣言を行い,新皇政府を成立させた。
 その事実に対した朝廷は,征討軍の東国進発とは別に,在地の諸豪族に乱鎮定の功を募り,もし魁帥(かいすい)を斬(き)れば朱紫(しゅし:高貴)の品と,田地の賞を与え,次将を斬った者には,官位を賜うべきことを公示した。権力を利用して出世しようとする武士たちに恩賞をえさにして将門討滅を行わせようと謀(はか)った。敵対した貞盛も秀郷もこれに応じたものである。
 宿敵の貞盛とその一党の探索に取りかかったが,彼らを見出せないままに日が経ち,農兵的な性格をもった兵隊を帰休させねばならなくなった将門は,その許可を出す。そのことを知った貞盛らは,その油断を巧みに衝(つ)いて将門の本営を襲うことになる。
 決戦の場所は,石井(岩井)の北山とある。未申(ひつじさる)の刻(午後3時頃),兵力,装備ともに圧倒的に優勢な貞盛と秀郷の軍勢が,折から烈風の吹き荒れる中を押しよせ,戦いは壮絶をきわめた。
 始め,追い風を背に受けて有利な立場に立った将門軍は,優勢に戦いを進め,敵の主力を敗走させて本陣に引き返す途中,究然に風向きが変わって形勢が逆転した。その時,風のように駿足を飛ばしていた将門の愛馬の歩みが乱れ,武勇を振るった将門の気力が尽き,棒立ちになったその刹那(せつな),飛来した1本の鏑矢(かぶらや)が将門を無慚(むざん)に刺し貫いた。
 将門の最期を『将門記』は,このように描いている。
 将門討死の場面を『扶桑略記』は,神鏑(しんてき)によるとせず,貞盛が射放った矢によって落馬したといい,秀郷が駆けつけて頸(くび)をとり,これを士卒たちに与えたと記している。

原寸36.7cm×25.0cm (3枚とも)